母親の文定王后の影で思うようにならず、涙の日々を送ったことから、「涙の王」と言われる明宗です。
明宗とはどんな王だったのか?
明宗の家系図から詳しくご紹介していきます。
明宗の家系図
明宗は仁宗の後を継いだ第13代国王で、中宗と3番目の妃・文定王后の息子です。
母親の文定王后は悪名高き王妃で、多くの王妃を輩出してきた名門・坡平尹氏の一族の出身です。
明宗の妃は青松沈氏一族出身の仁順王后です。
青松沈氏(チョンソン・シムシ)は領議政をはじめとして多くの高官を輩出している名門一族です。
第4代国王・世宗の妃であった昭憲王后も青松沈氏出身でした。
<明宗の家系図>
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明宗はどんな王だったのか?
明宗は幼くして王になったため、母親の文定王后が代わりに政治を仕切りました。
もともと母の言いなりだった明宗は単なるお飾りの王に過ぎませんでした。
その間、文定王后と弟の尹元衡が政敵を粛清して、朝廷を独占してしまいます。
明宗が親政を始めても、状況は変わりませんでした。
文定王后が亡くなり、尹元衡が失脚してときには、その2年後には明宗も亡くなってしまいます。
そのため、明宗は最後まで王らしい仕事をすることなく生涯を終えています。
明宗のプロフィール
生年:1534年5月22日
没年:1567年6月28日
在位:1545年8月8日-1567年8月3日
君号:慶源大君
字:對陽(テヤン)
諱:峘(ファン)
廟号:明宗
父:中宗
母:文定王后
王后:仁順王后
子女:順懷世子
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明宗の家族
明宗は正室の仁順王后の間に生まれた順懐世子を13歳で失っています。
その後は、側室も含め子供に恵まれませんでした。
関係 | 称号 | 子供 | 生年-没年 | 備考 |
正室 | 仁順王后 | 1男 | 1532-1575 | 沈鋼の娘 |
(長男) | 順懐世子 | ー | 1551-1563 | 李暊 |
側室 | 慶嬪李氏 | 子女なし | 1541-1595 | 李添貞の娘 |
昭儀申氏 | 子女なし | 1533-1565 | 申彦淑の娘 |
明宗の兄弟姉妹
中宗が多くの側室をもったため、明宗には多くの義兄弟がいます。
先代の王・仁宗もその一人です。
文定王后から生まれた実の兄弟姉妹は1男4女で明宗が長男でした。
<明宗の実の兄弟姉妹>
関係 | 称号 | 名前 | 生年-没年 |
姉 | 懿恵公主 | 李玉蘭 | 1521-1564 |
姉 | 孝順公主 | 李玉蓮 | 1522-1538 |
姉 | 敬顕公主 | 李玉賢 | 1530-1584 |
妹 | 仁順公主 | 不詳 | 1542-1545 |
明宗の生涯
明宗は1534年5月22日に中宗と文定王后の間に初めての男の子として生まれました。
明宗と仁順王后との結婚
1544年、世子だった峘(明宗)は沈鋼の娘(仁順王后)と結婚します。
明宗11歳、仁順王后13歳でした。
慶源大君の冊封される
1544年11月、中宗が逝去すると、仁宗が即位、文定王后が王大妃となりました。
峘(明宗)は慶源大君として冊封されます。
王となった仁宗ですが、僅か8ヶ月後に亡くなります。
明宗の即位と文定王后の垂簾聴政
1545年7月、亡くなった仁宗に代わって、12歳の明宗が第13代国王として即位しました。
まだ、明宗が幼かったため、母親の文定王后が代理で政務を行いました。
垂簾聴政です。
政敵の粛清
それまで、朝廷では仁宗を支持する尹任中心の大尹(テユン)派と、明宗を支持する尹元衡中心の小尹(ソユン)派の二大派閥が争っていました。
仁宗が王位に就いたことで、大尹派が優勢となりましたが、仁宗が亡くなり明宗が即位したことで形勢は一挙に逆転しました。
尹元衡は尹任の大尹派を一掃しようと考えます。
尹元衡は尹任が謀反を画策しているとでっち上げて、尹任と大尹派の多くの人を処刑しました。
1545年の乙巳士禍(ウルササファ)です。
さらに、尹元衡は乙巳士禍で生き残った残党を粛清するため、再び、謀反をでっち上げて尹任の一派を一掃しました。
1547年の良才駅(ヤンジェヨク)壁書事件です。
尹元衡による徹底した政敵の粛清により、朝廷には尹元衡に逆らうものはいなくなりました。
息子の誕生と死
1551年、明宗と仁順王后との間に待望の王子(順懐世子)が生まれました。
しかし、順懐世子は1563年、享年13歳で亡くなってしまいます。
その後、子供に恵まれなかった明宗と仁順王后の悲しみは計り知れないほど深かったといいます。
文定大妃が亡くなる
1565年、文定大妃が亡くなりました。
やっと、明宗が独自で政治を行うことができるチャンスが訪れました。
早速、明宗は尹元衡の官職を剥奪、朝廷から追放しました。
突然の明宗の死
朝廷を独占してる者たちが去り、やっと明宗の本当の親政が始まろうとしていました。
しかし、文定大妃が亡くなってからの2年後
1567年6月28日、明宗が亡くなってしまいます。
享年34歳でした。
明宗の息子は既に亡くなっていたので、養子をもらい王位を継承させることになりました。
そこで、中宗の息子・徳興君の三男であった河城君を養子とし、第14代王・宣祖として即位させます。
このとき、宣祖はまだ15歳であったことから、大妃となった仁順王后が垂簾聴政を行っています。
まとめ
明宗は母親の文定王后のもとで、一度も自ら政務を行うことが出来ませんでした。
文定王后が亡くなり、尹元衡を朝廷から追放しますが、明宗はその2年後に亡くなってしまいます。
明宗は、まさに悪名高き文定王后の影に埋もれた「悲劇の王」といえます。