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明宗の家系図【文定王后と外戚に翻弄された朝鮮王】

明宗は母方・妻方ともに名門一族の出身でした。史臣からは王としての資質を高く評価されていましたが、歴史に残る大きな功績を残すことなく34歳で亡くなっています。

この記事では、明宗の家系図をもとに人物像や家族構成、そして、なぜ歴史に残る功績を残せなかったのか、その波乱に満ちた生涯を分かりやすく解説します。

明宗の家系図

明宗は仁宗の後を継いだ第13代国王で、中宗と3番目の妃・文定王后の間に生まれました。実子である順懐世子を13歳で失い、後継者に恵まれなかったため、中宗の庶子・徳興君の三男である河城君(後の宣祖)を養子に迎え、王位を継承させました。

その結果、明宗の直系はここで途絶え、以後は徳興君の家系が朝鮮王朝の王統を継ぐことになりました。

明宗の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<明宗の家系図>

母・文定王后は名門・坡平尹氏の出身で、世祖の妃・貞熹王后の弟・尹士昕の4代孫にあたります。一方、王妃・仁順王后は高官を多数輩出した名門・青松沈氏の出身です。父・沈鋼は、世宗の妃・昭憲王后の弟・沈澮の4代孫で、母・李氏は太宗の6代孫にあたりました。

このように、母方・妻方ともに王室や名門一族と深い関係を持つ家柄であり、明宗は有力な家系に支えられて王位を継承した人物でした。

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明宗はどんな王だったのか

実録には、明宗の孝行ぶりを伝える記述が何度も見られます。また、史臣によれば、英明で意志が強く、幼くして即位しながらも善悪を見分けて決断する力に優れ、良き指導者に恵まれていれば名君になったとも評価されています。

上英明剛毅, 仁孝出天, 雅好文藝。 幼沖卽位, 喜察善斷, 若使名儒碩輔, 導引爲善, 則眞可與有爲之君也。
<明宗実録:明宗22年6月28日>

<訳>主上は英明で意志が強く、生まれつき仁愛と孝行の心に厚く、文芸を好んだ。幼くして即位したが、善悪を見分け決断する力にも優れていた。もし名高い儒者や優れた補佐役が善政へ導いていたならば、まさに大きな事業を成し遂げることのできる王であった。

『明宗実録』の史臣評全体からは、明宗は王としての資質を備えながらも、文定王后や尹元衡らによる政治の中で、その能力を十分に発揮できなかったと考えられていたことが分かります。

明宗のプロフィール

明宗は12歳で即位し、22年11か月にわたって在位しました。しかし、約20年間は母・文定王后と尹元衡らが実権を握っていたため、政治を主導できたのは文定王后の死後の約2年間だけでした。

<プロフィール>
生年:1534年5月22日
没年:1567年6月28日(享年34歳)
在位:1545年7月6日~1567年6月28日
君号:慶源大君
字:對陽(テヤン)
諱:峘(ファン)
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不遷位(世室)に選ばれなかった明宗

王が亡くなると、その位牌は宗廟の正殿に祀られます。通常、「四代奉祀」の原則により、正殿に祀られるのは亡くなった直後の4代(高祖・曽祖・祖・父)のみです。次の世代が亡くなると順次、高祖の位牌は正殿から永寧殿へ移されました。

特に功績のある王は、不遷位(世室)として永代にわたり正殿に祀られる特権が与えられました。しかし、明宗は22年以上在位した王の中で唯一、不遷位に選ばれませんでした。

明宗以外に不遷位に選ばれなかった王は次のとおりです。

・在位期間が短かった王:
 定宗、文宗、睿宗、仁宗、景宗
・廃位された王:
 端宗、燕山君、光海君
・王朝滅亡による残留:
 純祖、憲宗、哲宗、高宗、純宗(※1)

※1:これらの王は正殿に位牌が残されていますが、不遷位として選ばれたわけではなく、王朝が終焉を迎えたことで、本来行われるべき移転の手続きが中断された結果、正殿に留まっている王です。

明宗の位牌が「不遷位として残るか、それとも永寧殿へ移されるか」が決まるのは、四代奉祀の原則により16代王・仁祖の代でした。しかし、明宗の不遷位について議論された記録は実録には見当たりません。

その背景には、文定王后による長期の垂簾聴政によって親政の開始が大きく遅れ、明宗自身が十分な治績を残す機会に恵まれなかったことが大きく影響したと考えられます。

文定王后に実権を握られた明宗

明宗はわずか12歳で即位したため、政治の実権は母である文定王后が握りました。そのため、明宗は長年にわたり自ら政治を主導することができませんでした。文定王后と明宗の関係について、実録には次のような史臣評が記されています。

少不如意, 輒肆叱咤, 有同民家壯母之待小子。 上性至孝, 奉承無違。 然時於後苑僻處, 爲之涕泣, 或至失聲。
<明宗実録:明宗20年4月6日>

<訳>(母である文定王后は)少しでも思いどおりにならないことがあると、すぐに激しく叱責し、その様子は、まるで庶民の家の気の強い母親が幼い子どもを扱うかのようであった。王は生まれつき極めて孝行であったため、逆らうことなく従っていた。しかし、ときには後苑(宮中の庭園)の人目につかない場所で涙を流し、時には声をあげて泣くことさえあった。

文定王后が明宗に代わって政治を主導する状況は、1565年に文定王后が亡くなるまで続きました。その後ようやく自ら政務を主導したものの、その期間は約2年しかなく、1567年に34歳で亡くなっています。結果として、後世に評価される治績を残すことができませんでした。

明宗の家族|断絶した直系の血筋

明宗は正室の仁順王后との間に待望の長男を授かりましたが、13歳の時に亡くなっています。このため、太祖以来続いてきた正室の子による王位継承は断絶しました。

明宗には二人の側室がいましたが、子には恵まれませんでした。そこで、傍系の血統でしたが、中宗の庶子である徳興君の息子・河城君(後の宣祖)が王位を継承しています。

<明宗の家族>

関係 名前 生年-没年 備考
中宗 1488-1544 第11代王
文定王后 1501-1565 尹之任の娘
懿恵公主 1521-1564 李玉蘭
孝順公主 1522-1538 李玉蓮
敬顕公主 1530-1584 李玉賢
仁順公主 1542-1545 夭折
正室 仁順王后 1532-1575 沈鋼の娘
長男 順懐世子 1551-1563 李暊
養子 河城君(宣祖) 1552-1608 徳興君の子
側室 慶嬪李氏 1541-1595 李添貞の娘
側室 昭儀申氏 1533-1565 申彦淑の娘
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明宗の生涯

明宗は即位後のほとんどの期間、母・文定王后と外戚が実権を握っていました。そのため、幼少期には聡明さを評価する記録もありますが、歴史に残る大きな功績を残すことなく、この世を去っています。

明宗の結婚

1544年、世子だった峘(明宗)は沈鋼の娘(仁順王后)と結婚します。明宗11歳、仁順王后13歳でした。実録には次のように記されています。

傳于政院曰: “以幼學沈鋼【刑曹參判沈連源子。】女, 爲慶原大君夫人事, 奉承傳。<中宗実録:1542年11月19日>

<訳>政院(国王の命令を伝達・執行する中央機関)に伝えた。「沈鋼(刑曹参判・沈連源の子)の娘を慶原大君の夫人とすることを王命に従って執行せよ。」

明宗の即位と文定王后の垂簾聴政

第12代王となった仁宗ですが、僅か8ヶ月後に亡くなります。あまりにも早い崩御だったことから、後世には文定王后による毒殺説も語られるようになりました。

1545年7月、亡くなった仁宗に代わって、12歳の明宗が第13代国王として即位しました。しかし、明宗が幼かったため、母の文定王后が垂簾聴政(代理政務)を行いました。

乙巳士禍(1545年)

明宗の即位直後、母・文定王后の弟である尹元衡(ユン・ウォニョン)を中心とする外戚勢力が、前王・仁宗の側近を粛清する乙巳士禍(ウルササファ)を引き起こしました。

この事件により、文定王后と尹元衡一族が朝廷の権力を独占し、外戚による政治の私物化が進むこととなりました。この結果、明宗は長く王として実権を振るうことができませんでした。

世子を失う

1563年3月、明宗は唯一の息子である世子を失います。

皇天之譴怒極矣, 國家之變故酷矣。 新喪儲貳, 冞切哀傷之至, 屢遭咎徵, 罔知消弭之方
<明宗実録:明宗18年10月6日>

<訳>天の怒りは極まり、国家には恐ろしい災いが続いている。つい最近、儲貳(世子)を失ったばかりであり、悲しみは極限に達している。その上、繰り返し不吉な兆しが現れており、この災厄をどう収めればよいのか、その手立てさえ分からない。

世子の死と、立て続けに起きる災いに途方に暮れている王の心情が読み取れます。

文定大妃の逝去と尹元衡の失脚

1565年、文定大妃が亡くなると、明宗はようやく自ら政務を主導できるようになります。そして、尹元衡の官職を剥奪し朝廷から追放しています。後ろ盾を失った坡平尹氏一族は衰退し、尹元衡とその妻である鄭蘭貞 (チョン・ナンジョン)は自決に追い込まれました。

明宗の早すぎる崩御

ようやく王としての実権を取り戻した明宗でしたが、文定大妃の死からわずか2年後の1567年、34歳という若さで病没しました。

すでに実子を失っていたため、中宗の息子である徳興君の三男・河城君が養子として迎えられ、第14代王・宣祖として即位しました。

宣祖への王位継承

明宗は世子を亡くした後も男子に恵まれませんでした。病で倒れた際、臣下から後継者について判断を求められた仁順王后は、徳興君の三男・河城君(後の宣祖)を王の看病に当たらせるよう命じています。

中殿以親筆書下曰:国家之事罔極、以德興君 【中宗大王庶也。名岹。卒。】 第三子鈞、入侍醫藥可也。
<明宗実録:明宗20年9月17日>

<訳>中殿は親筆で紙に書いて下した。「国家の事態は重大である。徳興君【中宗大王の庶子。名は岹。既に逝去】の第三子である鈞(河城君)を、医薬の世話(看病)に入らせることがよろしい。」

この記述からは、この頃には明宗と仁順王后が河城君を王位継承者として考えていたことがうかがえます。

この後、明宗は河城君を後継者とする旨を直筆で書き残しました。明宗は亡くなるときには言葉を発することすらできませんでしたが、仁順王后がその書付を示したことで、河城君が後継者として迎えられることになりました。

この経緯は、『明宗実録』(明宗22年6月28日)に詳しく記録されています。

まとめ

明宗は幼くして即位しましたが、長期間にわたり文定王后や外戚勢力の影響を受け、思うように王権を発揮できませんでした。文定王后の死後は尹元衡らを失脚させて政治の主導権を握りましたが、そのわずか2年後、34歳で病死しました。

また、家系図から分かるように、明宗の直系はここで途絶え、以後は中宗の庶子・徳興君の家系が王統を継ぐことになりました。明宗の代は、朝鮮王朝の王位継承における大きな転換点だったといえます。

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