Googleのアドセンス広告を表示しています

定妃安氏の家系図【高麗3代王廃位の大義名分となった大妃】

定妃安氏は、高麗第31代王・恭愍王の妃として王室に入り、王朝末期の激しい政変の時代を生きた女性です。禑王・昌王・恭譲王の三王廃位の過程では、その存在が王位交替を正当化する大義名分とされました。

この記事では定妃安氏の家系図をもとに、人物像や家族構成、三王廃位の歴史背景と過程を史実に基づいて解説します。

定妃安氏の家系図

定妃安氏は旧竹山安氏の一族に生まれました。竹山安氏の始祖は安濬とされ、その先祖は倭寇を撃退したことで知られる安氏3兄弟の末弟・安邦侠です。

定妃安氏の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<定妃安氏の家系図>

定妃安氏の家系は曽祖父・安漢平は判戸曹事、祖父・安社卿は守門下侍中、父・安克仁は重大匡右文館大提學を務めた高麗名門の官僚家系でした。

こうした家柄の背景から、定妃安氏は恭愍王の王妃に選ばれたと考えられます。

【PR】スポンサーリンク

定妃安氏はどんな王妃だったのか?

定妃安氏の性格を直接伝える記録は確認できません。しかし、彼女は高麗末期から朝鮮初期の激動の時代を生き抜き、恭愍王、禑王、昌王、恭譲王、太祖、定宗、太宗、世宗と、実に8人の王の時代を経験した女性でした。

高麗王朝の滅亡と朝鮮王朝の建国という大きな政変を目の当たりにした人物でもあります。

定妃安氏のプロフィール

生年:1352年頃
没年:1428年(享年77歳)
氏族:竹山安氏
夫:恭愍王(1330-1374)
子女:なし
墓:不詳
【PR】スポンサーリンク

定妃安氏の家族

定妃安氏は代々高官の家系に父・安克仁の長女として生まれました。彼女は恭愍王に嫁ぎますが、二人の間には子どもはできませんでした。

関係 名前 生年-没年 備考
安克仁 1296-1383 竹城君
嘉利李氏 1296-不詳
長男 安天老 1344-不詳
次男 安仲老 1350-不詳
三男 安叔老 1353-1394
長女 定妃安氏 1352-1428 生年は推定

王朝交替の大義名分となった大妃

高麗から朝鮮へと移る時代を生きた定妃安氏は、王朝交替の合法性を示す象徴として用いられた大妃でした。そのことは、禑王から昌王、昌王から恭讓王への王位交替において、大妃の教命が用いられていることからも分かります。

百官奉傳國璽,獻于妃,遂以妃敎,立禑子昌
<高麗史八十九,列伝第二,后妃二>

<訳>百官は伝国璽を奉じて妃に献じ、妃の教命によって禑の子・昌を立てた。

国璽は王ではなく妃(定妃安氏)に献上され、即位は妃の教命という形式で行われています。

また、恭讓王の擁立のときにも、定妃の命令形式によって王位交替が行われています。

我太祖與諸大臣定策,奉妃敎,迎立恭讓王
<高麗史八十九,列伝第二,后妃二>

<訳>我が太祖(李成桂)が諸大臣と策を定め、妃の教命を奉じて恭讓王を迎え立てた。

李成桂勢力は禑王と昌王を「王氏ではない」として廃位しましたが、正統な王族を立てたという形式が必要でした。そこで用いられたのが大妃の教命であり、大妃の教命を大義名分として王朝交替の正当化が図られたのです。

定妃安氏の生涯

定妃安氏は安克仁の家庭に3男1女の長女として生まれました。生年は1352年頃と推定されています。

恭愍王の王妃に冊封される

1365年2月、恭愍王が深く愛した魯国公主が亡くなりました。翌1366年10月、安氏は恭愍王の王妃(定妃)に冊封されます。

魯国公主の死後、恭愍王には複数の王妃が存在していたことが記録されています。このとき王氏も益妃として冊封され、漢氏の姓が与えられました。高麗では王が複数の妃を持つことがありましたが、王の死後には嫡妃一人が定められる制度でした。

<恭愍王の4人の王妃>
・定妃安氏
・益妃漢氏
・恵妃李氏
・慎妃廉氏

父・安克仁が追放される

1368年、父の安克仁は侍従の柳濯とともに、魯国公主の影殿を建てるための工事(馬巖役)の中止を上訴しました。この工事は民にとって大きな負担となっていたためです。

しかし、この上訴は恭愍王の怒りを買い、安克仁は朝廷から追放されてしまいました。このとき定妃安氏も実家へ戻されています。

この出来事は、『高麗史』八十九,列伝第二,后妃二に記録されています。

国王の不理屈な命令

宮殿へ戻った定妃安氏は、恭愍王から理不尽な命令を受けます。恭愍王は王妃たちに子弟衛の青年と強制的に関係を持たせようとしたのです。高麗史には次のように記されています。

洪倫、韓安之强辱諸妃也,妃被髮徒跣,欲縊死,王懼而止
<高麗史八十九,列伝第二,后妃二>

<訳>洪倫と韓安が諸妃を無理やり辱めたとき、妃は髪を乱し裸足のままで、首をくくって死のうとした。王はこれを恐れて止めさせた。

魯国公主の死後、恭愍王の行動は次第に常軌を逸したものになっていきました。

恭愍王の暗殺と禑王の即位

1374年、益妃韓氏は恭愍王の命令で子弟衛の洪倫(ホンリュン)と通じ、妊娠してしまいます。このことが表沙汰になることを恐れた恭愍王はこの事実を知る洪倫と崔萬生の口封じを図りますが、逆に洪倫と崔萬生に殺害されてしまいます。

王位が空白になると、実権を握っていた李仁任は王の息子・禑王をわずか10歳で即位させました。

禑王の退位と昌王の即位

1388年、威化島回軍によって李成桂と曹敏修は崔瑩を追放して政権を掌握します。禑王は王位を追われ、定妃安氏は大妃として禑王の廃位と昌王の即位に同意しています。このときの王位交代に主導的な役割を果たしたのは曹敏修でした。

【PR】スポンサーリンク

恭譲王の擁立

1389年、李成桂勢力は曹敏修が擁立した昌王を正統な王ではないとして廃位し、新たに恭譲王を擁立しました。このとき定妃安氏は、昌王の廃位と恭譲王の即位の教旨を下しています。

恭譲王は、その後、定妃安氏の住まいを敬愼殿に移し、貞淑宣明敬信翼成柔惠王大妃の称号を与えました。

高麗の滅亡と朝鮮王朝の建国

1392年、恭譲王が廃位され、李成桂が即位して朝鮮王朝が成立しました。このとき定妃安氏は王大妃として玉璽を渡し、高麗王朝は475年の歴史に幕を閉じます。

定妃安氏は禑王、昌王、恭譲王の3人の王に廃位の教旨を下し、昌王、恭譲王、太祖の3人の王に即位の教旨を下しました。彼女はまさに高麗王朝最後の大妃だったのです。

大妃からの降格

朝鮮王朝が成立すると、定妃安氏は義和宮主へと降格されました。しかし、朝鮮王朝正当化の存在として、『太宗実録』には次のような記録が残されています。

日賜酒一甁于義和宮主 安氏, 卽前朝恭愍王 定妃也。
<引用元:太宗実録1415年5月25日>

<訳>毎日酒を一本、義和宮主安氏に下賜した(与えた)。彼女は高麗王朝 恭愍王の定妃である

定妃安氏の最期

定妃安氏は朝鮮建国後も長く生き、太祖、定宗、太宗、世宗の4代の時代を見届けました。『太宗実録』には1428年5月14日に亡くなったことが記されています。

義和宮主 安氏卒, 賜賻米豆各一百石。 安氏, 卽高麗 恭愍王 定妃也。
<引用元:太祖実録1428年5月14日>

<訳>義和宮主安氏が亡くなった。米と豆を各百石を下賜した(送った)。安氏は高麗恭愍王の定妃であった。

葬儀は高麗王妃の礼に従って行われましたが、墓の場所は現在も分かっていません。

まとめ

定妃安氏は高麗末期から朝鮮初期にかけての激動の時代を生き抜いた王妃でした。恭愍王の王妃となり、その後は大妃として禑王、昌王、恭譲王の三王の廃位に教命を下しています。これは、王位交替の正当性を求めた李成桂勢力が、大妃の教命を王位交替の大義名分として用いたためでした。

高麗王朝最後の大妃であった定妃安氏は、朝鮮王朝にとっても重要な存在でした。太宗(李芳遠)の誕生日に贈り物を送ったことや、朴苞の家を賜ったことが実録に記されており、その待遇からも当時の位置づけを伺い知ることができます。

error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました