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高麗王・穆宗の家系図【母親の千秋太后に振り回された王】

強烈な権力者の母を持つ穆宗の生涯を家系図から辿ってみました。

高麗王・穆宗の家系図

高麗王・穆宗の家系図

<高麗王・穆宗の家系図>

穆宗は第5代王・景宗と献哀王后(千秋太后)の間に生まれた長子です。

王族の血統では親族同士の結婚や密通が頻繁に行われ、穆宗の家系図を大変複雑なものにしています。

その中でも婚姻を通じて権力を握った母親の強烈な影響が彼の生涯を大きく左右しました。

 

母親の恐ろしい計画

献哀王后(千秋太后)は、寵愛する金致陽との間に生まれた子供を王位に就かせるために、王位継承の可能性があった大良院君を地方の寺院に出家させました。

それだけでは済まず、彼女はさまざまな手段を講じて、大良院君の殺害を何度も企てたといいます。

穆宗と母・献哀王后の関係

<穆宗と母・献哀王后の関係>

更に、彼女は王族の血筋ではない金氏を次の王にすることを急ぎ、息子である穆宗の廃位さえ計画したとされています。

 

穆宗の反撃

王の血統が途絶える危機感を感じた穆宗は、母の計画を阻止するために西北面巡検使の康兆(カンジョ)を呼び寄せます。

そして、母親と金致陽の計画を暴き、政変を通じて両者を排除することを試みました。

期待通り、康兆は政変を起こし、金致陽と息子を処刑、献哀王后を流罪としています。

 

康兆の謀反

穆宗の思惑とは裏腹に、今度は康兆が暴走、穆宗の廃位と新王の擁立を図ります。

穆宗は廃位され、幽閉地に向かう途中で康兆の部下に暗殺されてしまいました。

康兆は大良院君を擁立、第8代王・顕宗として即位させています。

顕宗について詳しくは>>高麗王・顕宗の家系図【高麗契丹戦争で高麗の独立を守った王】

 

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高麗王・穆宗はどんな王だったのか?

穆宗の時代は993年から始まった契丹の高麗侵攻が一段落し、対外的には平穏を保っていました。

しかし、国内では母・献哀王后と愛人の金致陽が朝廷を牛耳り、穆宗は母の言いなりで政治は腐敗していました。

高麗末期の学者である李齊賢は高麗史の中で、穆宗の優柔不断さや未熟さが国家に災いをもたらし、特に母子関係の失敗が王権の弱体化を招き、国家運営に混乱をもたらしたと指摘しています。

 

穆宗のプロフィール

第7代高麗王
姓・諱 :王誦
称号:開寧君
廟号:穆宗(モクジョン)
生年:980年5月20日
没年:1009年2月3日
在位:997年11月29日-1009年3月2日
陵墓:義陵

 

穆宗の家族

穆宗には、正室の宣正王后と側室の邀石宅宮人がいましたが、どちちらの妃にも子供はできませんでした。

宣正王后は成宗の王妃・文徳王后と文徳王后の前の夫・弘徳院君(王圭)の間に生まれました。

邀石宅宮人は女官出身でしたが、後に流罪となっています。

正室:宣正王后 劉氏
側室:邀石宅宮人 金氏
子女:なし

 

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穆宗の悲劇を通じて見える王権の脆弱さ

穆宗の悲劇は、母親が政治に長け、気が強く、男勝りであったことと考えます。

そのため、18歳で即位していながら、母親に実権を握られ、王として政治を司ることができませんでした。

歴史学者・池内宏は「高麗穆宗朝の禍亂」で、「金致陽が豪奢を極め、日夜、献哀王后と戯れていたが、母親を傷つけることを恐れた優柔不断な穆宗は何も言うことができなかった。」と記述しています。

 

同様な状況は、強い母を持った朝鮮王朝の明宗にも見ることができます。

母親の文定王后は息子(明宗)が生まれると仁宗が邪魔になり、何度も仁宗の暗殺を企てました。

また、明宗が王になってからは、弟の尹元衡とともに政治に介入、王権を弱体化して朝廷を腐敗させています。

 

穆宗が登場するドラマ

穆宗が登場するドラマはそれほど多くはありません。

千秋太后(2009年、イ・イン)
高麗契丹戦争(2023年、ペク・ソンヒョン)
( )内は演じた俳優

 

まとめ

高麗第7代王・穆宗は、優柔不断な性格と母・献哀王后(千秋太后)の強烈な影響を受けた治世で知られています。

母の計画によって王権が揺らぎ、国政が混乱する中で彼自身も反撃を試みますが、その努力は最終的に康兆の謀反によって挫折し、悲劇的な最期を迎えました。

一方で、穆宗は大変慈悲深い王だったともいわれ、穆宗の治世は高麗王朝の中でも評価が分かれるものとなっています。

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