恭愍王(コンミンワン)は元の皇女・魯国公主を愛した高麗王でした。
反元政策に命をかけた王でしたが、
魯国公主を失って失意のどん底に落ちたといわれています。
恭愍王はどんな人生を送ったのか?
まずは、恭愍王の家系図から調べてみました。
恭愍王の家系図
第25代王・忠烈王の時代より、王子は元で生活し、元の皇室の女性を妻に迎える慣習が続いていました。
恭愍王(コンミンワン)も20歳の時に、元の皇族ボロト・テムルの娘・魯国公主と結婚しています。
<恭愍王の家系図>
詳しくは>>奇皇后のワンユは実在した忠恵王【でも、評判の悪さで架空の人物に】
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恭愍王はどんな王だったのか?
妻の魯国公主がようやく懐妊しましたが、難産で亡くなってしまいました。
恭愍王は失意から政治への関心を失ってしまいます。
魯国公主の肖像画を自ら描き、その肖像画を壁にかけて、昼夜眺めてはその死を嘆き悲しんだといいます。
恭愍王は超大国に挑む反骨精神がある一方で、繊細でか弱い精神の持ち主でした。
恭愍王のプロフィール
恭愍王は絵画や書にも優れた才能を発揮した王でした。
現存する作品としては、馬に乗って野原を疾走しながら弓を引く武士を描いた「天山大猟図」があります。
第31代高麗国王
初名:祺(チョン)
生年:1330年5月6日
没年:1374年9月22日
享年:45歳
在位:1352年1月14日-1374年10月27日
諡号:恭愍仁文義武勇智明烈敬孝大王
父:忠粛王
母:明徳太后
王妃:魯国公主
陵墓:玄陵
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恭愍王の家族
魯国公主は難産で亡くなり、その子供も死産でした。
恭愍王の唯一の子供である王禑(後の禑王)の生母は宮人韓氏と称されていますが、実際は辛旽の寺にいた奴婢出身の般若の子供でした。
更に、実父は辛旽という噂もありました。
真実は定かではありませんが、これが李成桂に禑王が廃位される口実となりました。
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
父 | 忠粛王 | 1294-1339 | 第27代高麗王 |
母 | 恭元王后 | 1298-1380 | 明徳太后、高麗出身 |
正室 | 魯国公主 | 不詳-1365 | 宝塔失里(ブッダシュリ) |
側室 | 恵妃李氏 | 不詳-1408 | |
益妃韓氏 | 生没年不詳 | ||
慎妃廉氏 | 生没年不詳 | ||
定妃安氏 | 不詳-1428 | 王の死後、大妃と称される | |
宮人韓氏 | 不詳-1376 | 順静王后と追尊 | |
般若 | 不詳-1376 | 禑王の生母 | |
長男 | 牟尼奴 | 1365-1389 | 第32代王・禑王 |
禑王の幼名は牟尼奴(モニノ)です。
恭愍王の生涯
恭愍王は親元勢力の排除、対元関係からの脱却を図り、辛旽を重用して内部改革に当たらせました。
しかし、あまりにも急激なやり方のため、道半ばで頓挫してしまいました。
更に、愛する魯国公主の死がそれに追い打ちをかけました。
魯国公主との結婚
1330年5月6日、恭愍王は父・忠粛王と母・恭元王后に間に次男として生まれました。
長男は第28代王の忠恵王です。
1341年、12歳の時に燕京(現在の北京)へ入朝、元で生活を始めています。
1349年10月、20歳の時に元の魏王ボロト・テムルの娘・魯国公主と結婚します。
魯国公主は韓服を着るなど、恭愍王の反元政策に賛同して大変寵愛を受けた王妃でした。
恭愍王の奇氏一派の粛清
1351年、第30代王の忠定王が廃位されると、恭愍王は元より帰国、高麗第31代王として即位しました。
恭愍王は反元政策を取り、1352年には蒙古風の胡服弁髪令を廃止しています。
元で奇皇后が皇帝の寵愛を受けたことから、奇皇后の兄・奇轍(キチョル)を中心とする奇氏一族は高麗に恐れるものがないほどの権勢を誇っていました。
1353年に奇皇后の子・アユルシリダラが元の皇太子になると、奇氏一族は国王をも軽んじるほどの絶大な権力を握ります。
恭愍王が反元政策を推し進めるためには、奇氏一族との対決は避けて通れないものでした。
1356年5月、遂に恭愍王は謀反の罪で奇轍(キチョル)を殺害、奇氏一派を粛清します。
丁酉 太司徒奇轍·太監權謙·慶陽府院君盧頙, 謀反伏誅, 親黨皆逃.
<引用元:高麗史 恭愍王5年(1356年)5月>
元からの完全脱却
1356年6月、恭愍王は元の年号(暦)と官制を廃止、元からの完全脱却を図ります。
7月には、柳仁雨や李仁任に命じて、武力で元が制圧していた双城総管府を陥落させることに成功します。
この時、元に仕えていた李子春と彼の息子李成桂が内部で高麗軍と内通、双城総管府の城門を開いています。
李子春はこの功績により、東北兵馬使に任命されました。
1358年頃、恭愍王は名も無い一介の僧・辛旽(シンドン)に出会っています。
「生き仏」と言われ信望を集めていた辛旽の雄弁さに、恭愍王はすっかり魅了されてしまいました。
後に、恭愍王は辛旽に高麗の内部改革を任せることになります。
愛する魯国公主の死
1365年2月、やっと懐妊した魯国公主が難産で亡くなります。
魯国公主を寵愛していた恭愍王の落胆ぶりは、見るに堪えなかったといわれています。
愛する妻を失った精神的な衝撃から、亡き妻の供養に明け暮れ、妻を祀る壮大な霊堂の建造に狂気の如くのめり込んだといいます。
そのため、恭愍王は政治を全て辛旽に任せてしまいました。
その頃、辛旽の侍婢・般若と恭愍王の間に生まれたのが、王禑でした。
魯国公主が死んでから、恭愍王は多数の側室を持ちましたが、王位継承者を得るための形式上の婚姻だったともいわれています。
辛旽の政策
1366年、辛旽は親元派の排除を始めます。
親元派の特権階層が持っていた土地や奴婢を調べて、土地はもとの所有者に返し、奴婢は開放しました。
民衆は「聖人現る」といって喝采しましたが、徐々に傍若無人な振る舞いが目立つようになります。
最後は王の信任を失い、流刑後に処刑されてしまいました。
1371年、辛旽が50歳のときです。
変質的な性格がエスカレート
愛する魯国公主の死、辛旽の裏切り、反元政策の頓挫などの精神的なショックにより、恭愍王は徐々にその変質的な性格がエスカレートしていきました。
1372年10月、恭愍王は功臣および高官の子弟を選抜して子弟衛(チャジェウィ)を設置しました。
表向きは、子弟衛は宿直させて王を護衛したり、儀式を行うための儀仗兵でした。
しかし、実態は若くて容貌が美しい者たちを集め、男色をさせて楽しんだり、王妃との関係を強制するなど王の享楽のための兵士でした。
このことは、「高麗史の恭愍王21年(1372年)10月」に記録されています。
高麗史は朝鮮王朝になってから編集された史書で、朝鮮建国を正当化するために高麗王朝を歪曲して記録したとも言われています。
しかし、程度の差はあれ、恭愍王が変質的な性格であったことは間違いないと思われます。
恭愍王の突然の死
1374年9月22日、恭愍王が亡くなりました。
高麗史には、次のような記録があります。
癸未 幸王輪寺影殿, 宴于花園. 甲申 王暴薨. 在位二十三年, 壽四十五. 王性本嚴重、動容中禮。至晩年、猜暴忌克、荒惑滋甚。
<引用元:高麗史 恭愍王23年(1374年)9月>
恭愍王の死は、突然死として扱われています。
晩年の生活はひどく、荒れてめちゃめちゃだったようです。
「暴薨」には、暗殺を暗に含むこともあるようですが、実は次のような話も伝わっています。
恭愍王は子弟衛の兵に王妃との関係を強制し、息子を得ようとしました。
定妃、惠妃、愼妃は死をもじさない覚悟で拒否しましたが、益妃は洪倫(ホンリュン)と通じて妊娠してしまいます。
宦官の崔萬生(チョ・マンセン)がこのことを恭愍王に知らせると、恭愍王は事実を知っている洪倫と崔萬生の口封じを図ります。
しかし、先に危険を感じた洪倫と崔萬生は恭愍王を殺害する暴挙に出たといいます。
王を殺害した洪倫と崔萬生は処刑され、洪倫と益妃の間に生まれた娘も1376年に処刑されたといいます。
本事件がどこまで真実なのか定かではありません。
しかし、恭愍王が突然亡くなり、李仁任の推挙で、息子の禑王がわすが10歳で即位したことは事実です。
恭愍王と魯国公主が眠るお墓
現在、恭愍王と魯国公主は開城(北朝鮮の国境付近)に存在する陸墓に二人並んで眠っています。
向かって左が「玄陵」で恭愍王のお墓、右が「正陵」で魯国公主のお墓です。
墓の内部は石で囲われていますが、恭愍王が死んでも魯国公主と結ばれていたいという証でしょう、玄陵と正陵の間は魂の穴と呼ばれる穴でつながっています。
<玄陵と正陵の外観>
この陸墓は恭愍王がまだ、生きている時に制作を命じたことから、他の高麗王陵と比較にならないほど豪華な作りになっています。
精巧な彫刻が施され、細部の至るまで精巧に作られています。
最愛の王妃・魯国公主と優雅で豪華なお墓に眠りたいと思ったのでしょう。
恭愍王が登場するドラマ
恭愍王が登場するドラマとしては、イ・ミンホがチェ・ヨンを演じた「シンイ-信義-」がよく知られています。
・辛旽 高麗中興の功臣
(2005年、チョン・ボソク)
・シンイ-信義-
(2012年、リュ・ドックァン)
・大風水(2012年、リュ・テジュン)
・鄭道伝(2014年、キム・ミョンス)
まとめ
恭愍王は元王朝からの脱却を図り、反元施策を推し進めた王でした。
反元施策は愛する魯国公主を失うと、喪失感から政治には無関心となり道半ばで頓挫してしまいます。
恭愍王が夢見た元からの脱却は、モンゴル高原へ敗走した元が完全に滅亡する1388年まで待つことになります。