景宗の母親はドラマでも有名な張禧嬪です。
母親の賜死を幼くして体験した景宗はどんな王だったのか?
景宗の家系図から調べてみました。
景宗の家系図
景宗の父親は第19代王・粛宗であり、母親は多くのドラマに登場する禧嬪張氏(張禧嬪)です。
張禧嬪は仁同張氏の氏族出身で、祖父、父親とも通訳官を務めた中人の家系でした。
朝鮮王朝で唯一、両班でなく中人(チュンイン)出身の王妃です。
張禧嬪の母親の尹氏は張炯の後妻ですが、奴婢(後に免賤された)だったと言われています。
<景宗の家系図>
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景宗はどんな王だったのか?
景宗は幼い頃から学問に励み、物欲がなく、思いやりのある人物だったと「景宗実録」にも記録されています。
母親が死罪になったにも関わらず、燕山君のように恨みを晴らすような大虐殺を行うこともありませんでした。
しかし、母親の賜死に直面したショックは大きく、それ以来、うつ病を患っていました。
王に即位してからも、朝廷ではほとんど口を閉ざしたまま、政治は臣下に任せっきりだったといいます。
景宗のプロフィール
諱:李昀(イ・ユン)
字:輝瑞(フィソ)
諡号:徳文翼武純仁宣孝大王
廟号:景宗(キョンジョン)
在位:1720年7月21日-1724年10月11日
生年:1688年10月28日
没年:1724年8月25日
享年:37歳
父:粛宗
母:禧嬪張氏(張禧嬪)
王后:端懿王后沈氏
宣懿王后魚氏
陵墓:懿陵
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景宗の家族
景宗は世子の時に、沈浩の娘(端懿王后)と結婚していますが、即位の2年前に世子嬪を亡くしています。
その後、魚有亀の娘(宣懿王后)と結婚します。
景宗は生涯2人の妃を迎えましたが、子供をもけることはできませんでした。
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
父 | 粛宗 | 1661-1720 | 第19代王 |
嫡母 | 仁顕王后 | 1667-1701 | 粛宗の正室 |
生母 | 張禧嬪 | 1659-1701 | 正式には禧嬪張氏 |
弟 | 大君 | 1690-1690 | 早世 |
正室 | 端懿王后 | 1686-1718 | 沈浩の娘、世子嬪の時に逝去 |
継室 | 宣懿王后 | 1705-1730 | 魚有亀の娘 |
景宗の波乱に富んだ生涯
1688年、景宗は粛宗と張禧嬪の間に生まれました。
粛宗にとっては長男の誕生であり、大変喜んだといいます。
順風な幼少時代
景宗は翌年の1689年には元子に指命され、1690年には3歳にして世子に冊封されています。
このとき、世子の冊封に反対した西人派は一掃され(己巳換局)、西人派の仁顕王后は廃位、南人派が支持した母親の張禧嬪が王妃の座に就きました。
母 張禧嬪の降格と叔父 張希載の流刑
政権を握った南人派は朝廷で次第に権力を拡大していきました。
南人派の権力集中を恐れた粛宗は1694年、今度は南人派を一掃(甲戌換局)します。
これにより、西人派の仁顕王后は復位、景宗の母親・張禧嬪を正妃から嬪の位に降格されました。
叔父の張希載(チャン・ヒジェ)も流刑になっています。
このとき、母の処遇を巡って西人派は老論(禧嬪張氏の廃位を主張)と少論(禧嬪張氏の廃位を否定)に分裂しています。
母親の賜死
1696年4月、景宗は揀択により世子嬪(端懿王后)を迎えました。
しかし、1701年、仁顕王后を呪っていたとして母親が賜死させられます。
叔父の張希載も流刑地で死罪となります。
景宗14歳のときでした。
母親の死に直面した景宗の精神的なダメージは計り知れないものがあったと思います。
更に、このときから父粛宗に冷遇され、景宗は鬱病を患ったといいます。
粛宗の腹積もり
景宗を冷遇した粛宗でしたが、景宗の後継を変えることはありませんでした。
しかし、病気で弱った粛宗は1717年、左議政の李頤命を呼んで密談を行います。
世に言う丁酉独対(チョンユドクテ)です。
この単独面談で粛宗は延礽君への王位継承をほのめかしたと言われています。
粛宗は延礽君の王としての資質を高く評価していたのです。
この面談を機に、粛宗は世子に代理聴政させることを命じています。
延礽君への継承を推し進めるために、世子の失敗を期待した考えられています。
しかし、この選択は世子を支持する少論(ソロン)派と延礽君を支持する老論(ノロン)派の権力争いを激化させるものでした。
景宗が第20代王として即位
粛宗の期待とは裏腹に、景宗は無難に代理聴政をこなしました。
1720年、粛宗が亡くなり、景宗が第20代王として即位します。
このとき、2年前に亡くなっていた世子嬪は端懿王后に追尊され、陵号が恵陵とされています。
派閥闘争による朝廷の混乱
景宗が即位したときには、まだ老論派が主流派で少論派は少数派でした。
しかし、景宗が王に就いたことで老論派が危機感を抱きます。
そこで、1721年8月に老論派が延礽君を世弟(セジェ)にすることを提案します。
粛宗の逝去を機に少論から老論に鞍替えした仁元王后も延礽君を支持、延礽君が世弟(セジェ)となります。
1721年10月、老論派は景宗が病弱であることを理由に延礽君に代理聴政させることを主張しました。
少論派は反対しますが、景宗はこれを承諾しています。
しかし、延礽君はこれを断固として拒否し、成均館の儒生たちからも反対の声が上がると、景宗は一転撤回してしまいます。
更に、景宗は老論派に騙された逆に老論派を攻撃しました。
こうして、朝廷は派閥闘争により大混乱となります。
辛壬士禍による少論派の政権掌握
老論派の延礽君擁立の計画は失敗となり、少論派に絶好の反撃の機会を与えてしまいます。
少論派の金一鏡(キム・イルギョン)は老論派を謀反疑惑で徹底に追求します。
これにより、老論四大臣の金昌集(領議政)、李健命(左議政)、李頤命(領中枢府事)、趙泰采(判中枢府事)は朝廷から追放されました。
遂に、少論派が政権を掌握します。
1721年の辛丑獄事(シンチュオクサ)です。
更に、1722年には壬寅獄事(イミンオクサ)が起こります。
少論派が睦虎龍(モク・ホリョン)という官史を使い、老論派の謀反(景宗を殺害計画)を訴えさせたのです。
謀反に加担した人たちには、老論四大臣の息子や親類、支援者たちの名前があげられていました。
そして、金昌集、李健命、李頤命、趙泰采の老論四大臣が処刑、多数の老論派を処刑や流刑にしました。
その数は老論四大臣を含めて約60人が処刑され、約170人が流刑に処されたと言われています。
歴史に残る少論派の老論派に対する大虐殺でした。
辛丑の年と壬寅の年に起こった2つの事件、辛丑獄事と壬寅獄事を総称して、辛壬士禍(シニムサファ)と呼んでいます。
辛壬士禍により、老論派から少論派への政権交代が実現しました。
この時、当然、延礽君に謀反の容疑がかかりましたが、仁元王后の手助けで処分を免れています。
景宗の逝去と少論派の転落
少論派が老論派を追い落とし、遂に天下を握りました。
しかし、1724年、景宗が37歳で突然亡くなります。
代わって即位した英祖は、老論派虐殺の首謀者で少論派の領主・金一鏡を処刑、少論派を徹底的に追放しました。
これにより、少論派の天下はあっけなく終わります。
景宗の病気は本当か?
景宗に子供ができなかったのは痿疾(いしつ)が原因だったと言われています。
しかし、景宗が痿疾(いしつ)であったことは記録されていません。
景宗の病気についてはこちらで詳しくご紹介しています。>>トンイに登場する世子の病気の痿疾(いしつ)は本当か?
景宗の最後と死因
1724年8月20日の夜、景宗は胸と腹に激しい痛みを感じ体調の不良を訴えます。
景宗を診察した医官は、ケジャン(蟹を醤油漬けにした料理)と柿を一緒に食べたことによる食あたりと判断しました。
しかし、景宗の体調は益々悪化、腹痛と下痢が酷くなりました。
病状が表れてから5日後、衰弱した景宗は回復することなく亡くなってしまいます。
以上のことは、景宗実録に克明に記録されています。
突然の景宗の死に英祖が関与したとの噂が立ちました。
ケジャンと柿に医官たちは反対しましたが、景宗の好物だと英祖が勧めたといいます。
また、病状が悪化すると英祖は医官が反対する人参の煎じ薬を処方したとも言われています。
こうしたことが、英祖の毒殺説を裏付けていますが、景宗を思っての行動だったのか、今となっては真実は不明のままです。
まとめ
景宗は母親の賜死に直面するなど、幼い頃から激動の人生を送ってきました。
精神的にも弱っていた景宗は即位してからも、臣下の派閥争いの中、まともに政治を治めることもできませんでした。
臣下の言いなりの政治は、目立った業績を残すことなく、景宗は37歳の短い人生を終えています。