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趙英茂(チョ・ヨンム)は実在した李芳遠の誠実な武将

李芳遠の臣下として実在した趙英茂(チョ・ヨンム)

趙英茂はどんな武将だったのか?

人柄から生涯まで詳しくご紹介します。

 

趙英茂はどんな武将だったのか?

趙英茂(チョ・ヨンム)は李成桂に武将としての才能を見出され、将軍として抜擢されます。

しかし、第一次王子の乱で李芳遠の味方をし、李芳遠の臣下となりました。

李芳遠の臣下となった趙英茂は、李芳遠の絶大なる信頼を得て活躍、最終的に右議政(正一品)まで出世しています。

 

趙英茂のプロフィール

趙英茂(チョ・ヨンム)は素朴で誠実、曲がったことが嫌いで、政務に私情を挟まなかった人物でした。

<ドラマ「イ・バンウォン」のチョ・ヨンム>

<プロフィール>
趙英茂(チョ・ヨンム)
生年:1338年
没年:1414年7月28日
諡号:忠武
氏族:漢陽趙氏
祖父:趙珣厚
祖母:文川朴氏
父:趙世玲(趙世珍)
母:永興崔氏

 

趙英茂の家系図

趙英茂(チョ・ヨンム)は趙之壽を始祖とする漢陽趙氏の家系です。(永興趙氏との説もあります。)

趙之壽は高麗末期に朝順大夫僉議中書事を務めた人物で、祖先は代々、辺境の武人であったようです。

<趙英茂の家系図>

趙英茂が朝鮮建国の開国功臣となり、一族の勢力が大きく拡大しました。

趙暉の系統の5世・趙仁璧は李成桂の姉である貞和公主と結婚しています。

<豆知識>漢陽趙氏の2つの系統
漢陽趙氏の系統には、趙麟才から分かれた「版図公派」と趙暉から分かれた「摠管公派」があります。実は、この2つの派は、それぞれが正規の系統であると主張しており、系譜上では全く別の派として扱われています。摠管公派(漢陽趙氏大宗会)の見解では、版図公派は「永興趙氏」であると主張しています。つまり、趙英茂の一家は漢陽趙氏ではないことになります。現在もなお、趙麟才と趙暉は兄弟だったのか、全く血縁関係がなかったのか、詳しいことは分かっていません。

 

趙英茂の家族

趙英茂(チョ・ヨンム)には、正室・信州金氏と継室・載寧康氏がいました。

二人の夫人との間には5人の息子がいましたが、家族について詳細は不明です。

関係 名前 生年-没年 備考
趙世玲(趙世珍) 不詳
永興崔氏 不詳
正室 信州金氏 不詳 貞敬夫人、康熙の娘
息子 趙敍 1370-1429
息子 趙倫 不詳
息子 趙琠 不詳
継室 載寧康氏 不詳 貞敬夫人
息子 趙秩 不詳
息子 趙理 不詳

 

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趙英茂の生涯

1338年、趙英茂(チョ・ヨンム)は趙世玲(趙世珍)の息子として生まれました。

 

李成桂の私兵となり活躍

幼い頃から賢明で勇敢な性格だった趙英茂は辺境の番上軍を務めたあと、李成桂の私兵となりました。

趙英茂の活躍は李成桂の目に留まり、武将として抜擢されます。

 

1392年、李芳遠の命令で趙英茂は趙英珪とともに鄭夢周を殺害しました。

鄭夢周の殺害では趙英珪がよく知られていますが、趙英茂も参加していたのです。

その年の7月、趙英茂は朝鮮建国に貢献、開国功臣3等に処せられ、判殿中寺事となっています。

 

その後は、武将として活躍、メキメキと出世していきます。

1397年には忠清道の節制使となり、漢山伯に封じられました。

 

李芳遠の臣下となり功績を上げる

1398年、第一次王子の乱では李芳遠を助け、定社功臣1等に封じられています。

後日、太祖は趙英茂が李芳遠の味方に加担したことを知り、自分が抜擢したことを引き合いに出して、「恩知らず」と嘆き、非難したといいます。

その後は、李芳遠の臣下として、判中枢院事など要職を歴任しました。

 

1400年、趙英茂は第二次王子の乱で朴苞の軍隊を鎮圧、その功績で佐命功臣1等に封じられます。

1401年、參贊門下府事及び議政府事に任命されますが、私兵廃止を拒否、軍官を殴り、黄州に流刑となっています。

 

しかし、すぐに、釈放されると、その後は、判三軍府事、權行議政府事、判承樞府事、領承樞府事、兵曹典書を歴任しました。

1405年には、右議政(正一品)となっています。

 

趙英茂の最後

1408年、趙英茂は府院君に封じられ、領三軍府事(正一品)となりましたが、病気のため辞職しました。

辞職後は、京畿道光州廣域市で静養しています。

<豆知識>府院君(プウォングン)とは
府院君は、国舅(王后の父親)および正一品の品階を受けた功臣に対して与えられた爵位です。忠烈王期以降の高麗および朝鮮時代に使用されました。府院君の爵位は国舅だけではないんです。

1413年、趙英茂は右議政に復職しましたが、翌年の1414年、病気のため亡くなっています。

趙英茂の墓所は2つありますが、実際に埋葬されているのは、光州郡退村面広東里の墓所です。

<光州郡退村面広東里の墓所>

 

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歴任した官職及び称号

趙英茂が務めた官職をご紹介します。

官職及び称号
1379年 李成桂の郎将
1385年 中正大夫典客令
1388年 鉄原副使権農防將
1390年 海州牧使兼防衛使
1392年 朝鮮建国に参加(開国功臣3等)
判殿中寺事
漢山伯に封じられる
1394年 商議中樞院事と江界等處都兵馬使を兼任
1396年 安州牧師兼兵馬節祭司
1397年 忠清道の節制使
漢山君に封じられる
1398年 第一次王子の乱(定社功臣1等)
判中枢院事
義興三軍府中軍同知節制使
参賛門下府事
1400年 第二次王子の乱(佐命功臣1等)
1401年 參贊門下府事、議政府事を兼任
判三軍府事
權行議政府事
判承樞府事
領承樞府事
兵曹典書
1405年 右議政(正一品)
1406年 判吏兵曹事を兼任
1408年 府院君に封じられる
1409年 訓鍊觀都提調
領三軍府事(正一品)
1413年 右議政に復職

 

まとめ

李成桂に武将としての才を見出された趙英茂は李芳遠の臣下として才能を開花しました。

李芳遠の絶大な信頼を得た趙英茂は官僚として、右議政(正一品)まで上り詰めます。

 

多くの功臣が李芳遠の権力を盾に傍若無人に振る舞い、私利私欲に走りました。

しかし、素朴で誠実、曲がったことが嫌いな趙英茂は最後まで李芳遠の忠実な臣下でした。

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