イバンウォンの死因、最期の様子、葬儀、墓所について、史料に基づきながら詳しく解説します。
イバンウォンの死因とは?
正確な死因は不明
イバンウォン(太宗)1422年5月10日に亡くなりました。
しかし、史料である「朝鮮王朝実録」には、死因についての具体的な記述はありません。
太上王薨于新宮、春秋五十六
<引用元:世宗実録1422年5月10日>
このように、亡くなったことは明記されていますが、病名や症状の詳細には一切触れられていません。
なぜ死因が記されていないのか?
朝鮮王朝では、王の死因が公に記されないことは珍しくありません。
特に初期には、王の権威や神聖性を保つために、病名や症状の詳細を記録しないことが一般的でした。
また、当時の医療レベルが低く、まだ、多くの病気が未解明の状態でったことも影響しているかもしれません。
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イバンウォンの晩年、王位は既に息子の世宗に譲られていましたが、彼の死を迎えるまでの過程は丁寧に記録されています。
4月17日、臣下に世宗の側室選びを指示するなど、健全なイバンウォンの姿が記録されていますが、25日に突然、病気の記述が登場します。
月日 | 出来事 |
4月25日 | 太上王が病床に伏す |
4月26日 | 太上王の病を受けて、罪人を赦免する |
陽寧大君を呼び寄せて看病させる | |
4月29日 | 宗廟と昭格殿で祈祷を行う |
4月30日 | 官僚の見舞いを禁じ、宮中の警備を強化する |
5月1日 | 父の看病のため、世宗は蓮花坊新宮に滞する |
5月2日 | 太上王が危篤になり、再び罪人を赦免する |
5月3日 | 宮殿の警備を強化、出入りを制限する |
5月4日 | 太上王の病状が少し回復する |
5月8日 | 太上王を蓮花坊新宮に移す |
5月9日 | 太上王の病が再び悪化する |
世宗が梓宮(葬儀)の準備を命じる | |
5月10日 | 太上王が蓮花坊新宮で崩御 |
注)晩年、イバンウォン(太宗)は譲位して太上王の地位にいました。
世宗は父の看病を始めて以来、薬や食事はすべて自ら与え、病が重くなると一晩中そばに仕えて、決して衣を脱いで眠ることはなかったといいます。
これは、孝の精神を象徴的に表す重要な行為で、王家の徳を内外に示す一種の儀礼でもありました。
赦免(しゃめん):罪を許すこと
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イバンウォンの葬儀は儒教的かつ質素な形式で執り行われたことが記録されています。
また、彼は仏教を嫌ったため、葬儀は伝統的な儒教礼制で行われ、仏教的な要素は徹底的に排除されました。
生前、臣下に「陵(お墓)のそばに寺を建てるべからず。僧侶を近づけてはならぬ」とまで、伝えていました。
イバンウォンは自分の死後の儀礼を模範とし、後継の王や子孫にそれを踏襲させようとしたのです。
儒教的礼制として、イバンウォンを棺に収めるときに、死体を清め、口に飯を含ませる習俗が行われています。
この儀礼は、ドラマ「太宗・イバンウォン」で非常に詳細に描かれていました。
イバンウォンのお墓
イバンウォンは元敬王后と並んで献陵(ホンヌン)に埋葬されています。
場所はソウル特別市瑞草区内谷洞です。
<イバンウォンのお墓(右の献陵)>
献陵の隣には、第23代国王・純祖とその妃である純元王后が合葬されている仁陵(インヌン)があります。
仁陵は合葬なのでこんもり盛られた陸寝(ヌンチム)は一つです。
仁陵はもとは坡州の長陵の近くにありましたが、1856年に献陵の隣に移されました。
献陵(ホンヌン)と仁陵(インヌン)を合わせて献仁陵(ホニンルン)と呼ばれています。
よくある疑問(FAQ)
- Q:イバンウォン(太宗)の死因は何ですか?
A.病死とされていますが、具体的な病名は記録に残っていません。王の権威を保つため、詳細な死因を記さないのが当時の慣習でした。 - Q:最期の様子はどのように記録されていますか?
A.病に伏してから亡くなるまでの約2週間、世宗が看病にあたるなど、非常に丁寧に記録されています。罪人の赦免や祈祷など、儒教的・象徴的な行為も見られました。 - Q:イバンウォンの葬儀はどのように行われましたか?
A.仏教を嫌った彼の意思により、葬儀は儒教礼制に則って質素に行われ、仏教的な要素は一切排除されました。 - Q:イバンウォンの墓はどこにありますか?
A.ソウル特別市瑞草区内谷洞にある「献陵(ホンヌン)」に、正妃・元敬王后とともに埋葬されています。 - Q:世宗の看病に象徴的な意味はありますか?
A. はい。儒教における「孝」を象徴する行為とされ、王家の徳を内外に示す意味がありました。
まとめ
イバンウォン(太宗)は、朝鮮王朝の基礎を築いた偉大な王でしたが、死因についての具体的な記録は残されていません。
しかし、彼の最期は王としての気高さと、国への深い思いがにじんでいます。
病のなかでも最後まで国の行く末を考え、死後の儀礼まで自ら命じた姿は、まさに王の中の王と言えるでしょう。
また、時として非情だった父を世宗が手厚く看病したエピソードも印象的でした。
イバンウォンの生涯は波乱に満ちていましたが、最後は子供に看取られ静かに眠ったことと思われます。
生涯について詳しくは>>太宗 イバンウォンの実話【朝鮮王朝を築いた李芳遠の生涯】