ヘチ王座の道に重要な人物としてイ・グム(英祖)の異母弟のイ・フォン(延齢君)が登場します。
実在した延齢君とは、どんな人物だったのか。
延齢君の家系図から詳しくご紹介します。
延齢君の家系図
延齢君(ヨルリョングン)は第19代王・粛宗と側室・榠嬪朴氏の間に六男として生まれました。
<延齢君の家系図>
延齢君は若くして亡くなっており、子供がいませんでした。
そのため、延齢君が亡くなると荘献世子の息子の恩信君が家督相続のために養子になりました。
しかし、恩信君にも子供はできず、17歳で亡くなります。
そこで、今度は南延君が家督相続のために恩信君の養子になりました。
南延君は興宣大院君の父親です。
王位が見えた興宣大院君は政略を駆使して、息子を第26代王・高宗に即位させています。
延齢君とトンイの関係
延齢君の母親・榠嬪朴氏はトンイ(淑嬪崔氏)と同じ粛宗の側室です。
従って、トンイの息子の延礽君と延齢君とは異母兄弟になります。
<延齢君とトンイの関係>
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延齢君はどんな人物だったのか?
延齢君のプロフィール
<延齢君のプロフィール>
生年:1699年6月13日
没年:1719年10月2日
享年:21歳
幼名:仁壽(インジュ)
本名:李昍(イ・フォン)
爵号:延齢君
父:粛宗
母:榠嬪朴氏(朴孝健の娘)
妻:商山郡夫人金氏(金東弼の娘)
子供:恩信君(養子)
延齢君の母
実は、延齢君(ヨルリョングン)の母・榠嬪朴氏はトンイよりも早く、1688年に王様の寵愛を受けて承恩尚宮になっています。
しかし、延齢君が生まれたのはそれから約10年後の1699年7月5日、グムが生まれてから5年後になります。
トンイの方が先に子供を生むんですね。
でも、榠嬪朴氏は延齢君が生まれてからは、順調に昇格して1702年には側室の最高位の嬪(ピン)になっています。
延齢君が重要な人物なのは、実は粛宗はこの延齢君を誰よりも大切にしたと言われています。
もちろん、延齢君の母親の榠嬪朴氏も寵愛し続けたことは間違いないでしょう。
つまり、粛宗はトンイと延礽君(ヨニングン)以上に、榠嬪朴氏と延齢君(ヨルリョングン)を大事にしていたと言われています。
これについては、トンイは実話か創作か?【驚き!史実はドラマより奇なり】で詳しくご紹介しています。
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延齢君の死因
榠嬪朴氏は1703年にトンイよりも15年も早く亡くなってしまいますが、延齢君も1719年に21歳の若さで亡くなくなります。
ヘチではイ・タン(密豊君)に殺されますが、あれはドラマでのフィクションです。
史実における延齢君の死因は病死です。
病名は記録されていません。
21歳の若さで急死したことから、伝染病などにかかったのかもしれません。
このときの粛宗の悲しさは計り知れないものがあったのでしょう。
なんと、粛宗も次の年の1720年に亡くなります。
まとめ
粛宗は延齢君を跡継ぎにしたいと思うほど寵愛していたとも言われています。
ヘチ王座の道に何気なく登場している延齢君(イ・フォン)ですが、実は、粛宗を語る上で歴史上重要な人物かもしれません。