ヘチに登場するヨニングンの世子嬪(後の王妃・貞聖王后)は気の強い両班の娘でした。
トンイに登場した貞聖王后はとってもおしとやか。
どちらが本当だったのか?
詳しく調べてみました。
ヘチの貞聖王后は気の強い両班の娘
ヘチ王座への道の貞聖王后(チョンソンワンフ)は自分勝手な気の強い両班の娘として登場します。
<ヘチに登場するソ氏(貞聖王后)>
ヨニングンが王世弟になる前は、結婚して落ちぶれた腐っていました。
しかし、王世弟嬪になるとなったら自分を着飾ることに余念がなく、夫のことなど全く気にもしませんでした。
ヨニングンにも愛情の欠片もなかったような演出でした。
史実の貞聖王后は温厚で寛大な性格だったと言われています。
ヘチに出てくる貞聖王后のような性格で33年もの間、子供もなく穏やかに暮らしたとは考えにくいですね。
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トンイの貞聖王后はおしとやかな娘
トンイに登場する貞聖王后はとってもおしとやかな娘でした。
<トンイに登場するヘイン(貞聖王后)>
進士(チンサ)の父親である徐宗悌(ソ・ジョンジェ)の娘ヘインとして登場します。
トンイも清らかで聡明な娘を一目で気にい入りました。
トンイに出てくる貞聖王后の方が史実に近いようなイメージと思います。
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お姫選びの王気の話は創作
ヨニングンの婚礼相手を選ぶ時に、トンイは王気(ワンギ)が漂っている家の娘を選ぶ話がでてきますが、これは創作です。
その家は第9代国王・成宗の父である懿敬世子(ウィギョンセジャ)が暮らしていた家であり、第14代国王・宣祖(ソンジョ)が勉強した家でした。
長男ではない二人の王子が関係した家であることから、もし、ヨニングンが住んだら。。。ヨニングンが王になるのでは?
という「民の噂になる恐れ」をトンイは利用したのです。
朝廷の重臣は「ヨニングンが王になることを信じる民心」が広がることを恐れたのです。
確かに、ヨニングンの最初の王妃である貞聖王后(チョンソンワンフ)の父親は進士の徐宗悌(ソ・ジョンジェ)ですが、家にまつわる話は記録にはありません。
よくできた話ですが。。。
史実の貞聖王后
史実の貞聖王后(チョンソンワンフ)は温厚で寛大な性格だったと言われています。
生年:1693年12月27日
没年:1757年3月26日
享年:64歳
父親:達城府院君 徐宗悌
母親:岑城府夫人 牛峰李氏
兄:徐命伯
貞聖王后は1704年に11歳でヨニングン(延礽君)と婚礼をあげています。
ヨニングンよりも約2歳年上の姉さん女房でした。
1721年にヨニングンが王世弟(ワンセジェ)になり、貞聖王后も王世弟嬪(ワンセジェビン)となりました。
そして、1724年にヨニングンが王に即位して貞聖王后は王妃となりました。
貞聖王后は1757年に64歳で亡くなるまで、33年間の長きに渡り王妃を務めました。
これは、英祖の在任期間が長かったことによります。
貞聖王后はこれだけ長い期間、王妃であったにも関わらず、特に悪い噂もありません。
側室の子供も自分の子供のように可愛がったようです。
善良で心優しい王妃であったと思います。
史実の貞聖王后について詳しくは>>貞聖王后の家系図【最長在位期間33年間の王妃】
ヨニングンと貞聖王后の仲は良かったのか
ヨニングンと貞聖王后の間には子供は出来ませんでしたが、特に仲が悪かった記録はありません。
また、悪いエピソードも見当たりません。
貞聖王后は夫の側室の子供の孝章世子や荘献世子を大変可愛がったといいます。
ここからも、むしろヨニングンと貞聖王后は仲が良かったのではないでしょうか。
ヨニングン(英祖)は貞聖王后が亡くなったときは、貞聖王后のお墓の隣を空けています。
<西五陵にある弘陵(貞聖王后のお墓)>
ヨニングン(英祖)は死後、自分が入るつもりであったと思われます。
しかし、孫の正祖により英祖は2番目の王妃であった貞純王后の隣に埋葬されてしまうことになります。
まだ、生存していた影響力の大きかった貞純王后への気遣いと思われます。
まとめ
ヨニングン(英祖)の最初の王妃・貞聖王后は温厚で心優しい王妃であったと推定されます。
ヨニングンとの仲も良かったと思われます。
ヘチに出てくる貞聖王后よりも、トンイに出てくる貞聖王后に近いのではないでしょうか。
但し、王妃であった期間が長いわりにはエピソードが少ない王妃でした。
平凡に、そして無難に生涯を送った王妃であったと思われます。