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トンイは実話か創作か?【実は粛宗の最愛の人ではなかった】

ドラマ「トンイ」では、トンイは最後まで粛宗に愛され、梨峴宮(イヒョングン)で暮らし始めたところで終わります。

しかし、これは史実とは大きく異なります。

粛宗が最後まで寵愛した人は、実はトンイではなかったのです。

榠嬪朴氏(ミョンビンパクシ)

ドラマには登場しなかったこの女性こそ、粛宗が最後まで寵愛した女性でした。

 

榠嬪朴氏とはどんな人?

実は、粛宗が最初に寵愛したのはトンイではなく、榠嬪朴氏でした。

彼女が寵愛を受け始めたのは、トンイよりも何と4年も早かったのです。

しかし、トンイは子どもに恵まれ、その後、とんとん拍子に昇格していきました。

(注意)トンイのモデルは実在した淑嬪崔氏(粛宗の側室)です。
以下、トンイと記述している部分は実在した淑嬪崔氏のことを示します。

 

一方、榠嬪朴氏はしばらく、承恩尚宮(王の寵愛を受けた女性の宮職)のままでした。

榠嬪朴氏について更に詳しくは>>榠嬪朴氏の家系図 をご覧ください。

 

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粛宗の心変わりの証拠

トンイを寵愛していた粛宗ですが、ある時期を境に状況が変わり始めました。

それは、榠嬪朴氏が息子のファンを生んだ1699年ごろです。

榠嬪朴氏はこれを機に次のように昇格していきました。

1693年:淑媛(スグォン)
1694年:淑儀(スギ)
1695年:貴人(キイン)

 

一方、トンイは後ろ盾だった仁顕王后を1701年に失い、宿敵張禧嬪の蹴落としに躍起になります。

そして、粛宗に張禧嬪の呪詛の件を伝え、張禧嬪を賜死させたのです。

<豆知識>張禧嬪(チャンヒビン)
張禧嬪は中人の身分から始めて王妃になった女性です。一時、粛宗の寵愛を受け、李昀(第20代王・景宗)を生んでいます。

 

この事件をキッカケに粛宗のトンイに対する心情が明確に変わりました。

粛宗はトンイの移住を梨峴宮(イヒョングン)に移したり、延礽君(トンイの息子)と一緒に暮らすことを命じたのです。

これは、明らかにトンイに対する粛宗の心変わりの証拠と言えます。

 

次のトンイと榠嬪朴氏の昇格年表を見ると粛宗の心変わりは明らかです。

榠嬪朴氏がフォンを生んだ1699年を境に榠嬪朴氏が順調に昇格、1702年には側室の最高位である嬪(ピン)に到達しています。

<トンイと榠嬪朴氏の昇格年表>

トンイ 榠嬪朴氏
1688 承恩尚宮になる
1692 承恩尚宮になる
1693 淑媛に昇格
1694 淑儀に昇格
1695 貴人昇格
1698 淑媛に昇格
1699 嬪に昇格
<粛宗の淑嬪崔氏に対する態度が変わり始める>
1699 淑儀に昇格
1701 貴人に昇格
1702 嬪に昇格
1703 榠嬪朴氏 死去
1718 トンイ 死去

 

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粛宗はなぜ心変わりしたのか

粛宗がトンイから榠嬪朴氏に心変わりした理由は、次の2点と考えます。

・息子を生んだ榠嬪朴氏を愛し始めた
・政略に走るトンイに対して愛が冷めた

 

榠嬪朴氏に男の子が誕生

榠嬪朴氏に男の子が生まれたとき、粛宗は39歳でした。

中々、男の子に恵まれなかった粛宗にとって、この年に生まれたフォンが可愛くてたまらなかったと思います。

 

そして、フォンを生んだ榠嬪朴氏を愛おしく思ったことは間違いありません。

その後、榠嬪朴氏は側室最高位の嬪(ピン)に昇格しています。

嬪は側室の最上位階級です。

 

トンイが政略に走る

粛宗のトンイに対する愛が冷めた理由は、トンイが政略に走ったためです。

トンイは心の支えとなっていた仁顕王后が亡くなり、かなり、焦っていたと考えられます。

 

そこで、張禧嬪が巫蠱(呪術やまじない)を使ったことを粛宗に密告し、宿敵張禧嬪の蹴落としにかかりました。

「あのトンイが?」と思うかもしれませんが、粛宗実録にその記録が残っています。

至是, 巫蠱事果發, 外間或傳, 淑嬪 崔氏, 追慕平日逮下之恩, 不勝痛泣, 密告於上云。<引用元:粛宗実録1701年9月23日>

<訳>このときになって、巫蠱の事件(呪術やまじないを使った事件)がついに発覚し、宮廷でも噂になっている。淑嬪崔氏は、かつて王妃から受けた受けた寵愛を思い出し、悲しみに耐えきれず、(巫蠱の事件について)王に密告した。

政略を駆使して政治運営してきた粛宗にとって、逆に政略を用いられることは最も嫌うことでした

この頃から、粛宗は意識的にトンイを避けたように見られます。

 

1703年、粛宗の最愛の女性・榠嬪朴氏が亡くなっています。

フォンはまだ5歳でした。

粛宗は榠嬪朴氏の死を痛く悲しんだといいます。

 

このように、粛宗の最愛の女性は榠嬪朴氏であり、彼女が粛宗の心を最後まで掴んでいました。一方で、トンイへの愛は徐々に冷めていったのです。

 

トンイが派閥闘争で果たした役割

粛宗の時代は西人派と南人派の二大派閥が激しく争う時代でした。

このとき、西人派は仁顕王后を支持、南人派は張禧嬪を支持していました。

 

南人派が天下を握る

当初は西人派が優勢でしたが、南人派が陰謀により仁顕王后を廃位、朝廷の主導権を握ります。

南人派の天下となりますが、すぐに西人派の巻き返しが始まりました。

このとき、裏で西人派のために動いたのがトンイだったのです。

 

トンイによる西人派の巻き返し

仁顕王后の実家で育ったトンイは、当然、西人派の中心人物で仁顕王后の父・閔維重に絶対的な信頼を寄せていたことは間違いありません。

(このことは、以下のトンイの生い立ち(史実)の項で詳しくご紹介しています)

 

王子を生み、ますます粛宗から寵愛を受けるトンイが張禧嬪の不利になることを告げ、西人派の巻き返しを助けました。

事実、仁顕王后は復位、張禧嬪は降格の上、最後は賜死させられています。

 

トンイの生い立ち(史実)

トンイは仁顕王后の復位を願って西人派と手を組んでいます。

なぜ、トンイがそこまで手助けしたのでしょうか?

そこには、トンイの幼い頃の生い立ちが関連していました。

 

仁顕王后の父に育てられる

トンイが宮廷に入ったころの説として、現在、最も支持されている説は、粛宗の2番目の王妃・仁顕王后の女官であったという説です。

その説によると、トンイは幼少のときに両親と死別して孤児になりました。

 

そして、その孤児を可哀想と思い、引き取ったのが仁顕王后の父・閔維重(ミン・ユジュン)でした。

閔維重は、当時8歳だった仁顕王后とトンイを一緒に育てました。

トンイは5歳でした。


<トンイは閔家に引き取られる>

 

針房の見習い女官で入宮する

経緯は不明ですが、トンイは7歳で入宮して、王室の服を仕立てる部署の針房(チンバン)の見習い女官となりました。

針房は王と王妃の世話をする至密(チミル)に次ぐ格の高い部署です。

後見人としての閔維重の力が強かったのでしょう。

<豆知識>水汲みのムスリは嘘
ムスリとは宮廷で最下位層に位置する水汲みなどの雑用を行う奴婢のことです。1728年に英祖に反乱を起こした李麟佐が、卑しい母として英祖を陥れるために撒き散らした噂でした。こうしたありもしない噂が現代にも真実のように語られているのです。

 

王妃付きの女官になる

その後、1681年に仁顕王后が粛宗の正室になると、トンイは王妃付きの女官となります。

トンイと仁顕王后は仲が良かったと言われていますが、幼い頃から一緒に育ったことを考えると合点が行きます。

そして、姉のような存在だった仁顕王后をトンイは何とか復位させたいと考えたことは間違いありません。

 

承恩尚宮以降の史実(ドラマとの対比)

トンイが粛宗の寵愛を受け、承恩尚宮(スンウンサングン)になったころからは、かなり詳細に史実の記録が残されています。

史実として確認できる出来事とドラマの放送話で対比してご紹介します。

 

史実では、トンイが承恩尚宮になる前に、仁顕王后が廃位され、張禧嬪が王妃になっています。

このようにドラマではストーリーの展開上、史実の順番を変えることがありますが、おおまかには史実をベースに脚本されていることが分かります。

<承恩尚宮以降の史実一覧>

史実 ドラマ
1689 5月2日、仁顕王后が廃位、宮殿を出る 21話
1690 10月22日、張禧嬪が王妃になる 23話
1692 承恩尚宮になる 31話
1693 4月26日、懐妊、淑媛に昇格(但し、子どもは早世) 38話
1694 4月12日、張禧嬪が王妃から嬪に降格 38話
4月12日、仁顕王后が王妃に復位 38話
9月13日、クム誕生 44話
1698 7月7日、第三子を生むが、すぐに死亡
1699 6月13日、クムに延礽君の称号が与えられる 47話
1701 8月14日、仁顕王后が死去 49話
9月23日、粛宗に張禧嬪の呪詛を伝える
10月10日、張禧嬪が42歳で賜死 55話
1702 10月3日、仁元王后が王妃になる 55話
1704 延礽君が貞聖王后 と婚礼をあげる 56話
1701 10月、梨峴宮で暮らし始める(1704年4月まで) 60話
1711 6月22日、延礽君の居所で暮らし始める
1718 3月9日、トンイ48歳で死去

史実と違うところは、第三子を生んだがすぐに亡くなったこと。

粛宗に張禧嬪の呪詛の件を直接伝えたこと、延礽君の居所で一緒に暮らし始めたことです。

それ以外はドラマは、ほぼ実話のとおりですね。

 

まとめ

残念ながら、粛宗が最も寵愛したのはトンイではありませんでした。

また、ドラマ「トンイ」も史実をベースにしていますが、かなり脚色されていることも事実でした。

 

私が今回の調査で一番注目したことは、トンイが仁顕王后の父・閔維重に育てられ、針房の見習い女官として入宮したこと。

及び、仁顕王后のお付きの女官になって、粛宗と出会ったことです。

それは、トンイと仁顕王后がとても仲が良かったこと、また、後に閔維重が英祖の世弟に強固に反対した事実と非常に合致したからです。

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