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榠嬪朴氏の家系図【粛宗が最後に最も寵愛した側室】

榠嬪朴氏は粛宗が最も寵愛した側室でした。

榠嬪朴氏はどんな女性だったのか?

家系図から詳しく調べてみました。

榠嬪朴氏の家系図

榠嬪朴氏は朴彦孚(パク・オンブ)を始祖とする密陽朴氏一族の出身です。

朴彦孚は高麗第11代王・文宗の時代に総理格だった人物です。

 

しかし、榠嬪朴氏の家系図については父が朴孝健であること以外、家族関係については知られていません。

<榠嬪朴氏の家系図>

 

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榠嬪朴氏はどんな側室だったのか?

榠嬪朴氏は張禧嬪の内人となり、粛宗の寵愛を受けました。

ドラマの影響で粛宗の寵愛を受けた側室としてはトンイこと「淑嬪崔氏」が有名ですが、粛宗が最後に最も愛したのは榠嬪朴氏だと言われています。

 

榠嬪朴氏のプロフィール

榠嬪朴氏は謎多き女性で、父親以外の家族については全く分かっていません。

<プロフィール>
榠嬪朴氏(ミョンビンパクシ)
生年:不詳
没年:1703年 8月27日
氏族:密陽朴氏
父:朴孝健
母:不詳
夫:粛宗
息子:昍(フォン)/延齡君

 

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榠嬪朴氏の家族

榠嬪朴氏は粛宗との間にフォン(後の延齡君)を生んでいます。

関係 名前 生年-没年 備考
朴孝健 不詳 通政大夫(正三品)
不詳 不詳
粛宗 1661-1720 第19代王
本人 榠嬪朴氏 不詳-1703
息子 昍(フォン) 1699-1719 延齡君

 

榠嬪朴氏の生涯

榠嬪朴氏は朴孝健の娘として生まれました。

幼少の頃の記録は有りませんが、恐らく幼少の頃に宮女として入宮したと思われます。

 

粛宗の寵愛を受ける

榠嬪朴氏が粛宗の寵愛を受けた時期については、1683年と1688年の二つの説があります。

1683年説の根拠は、榠嬪朴氏が張禧嬪の内人を務めていたことから、張禧嬪が宮廷から追放されていた時期に寵愛を受けたとするものです。

張禧嬪は明聖王后により、1680年から1684年までの間、宮廷を追放されていました。

 

1688年説の根拠は、1698年に榠嬪朴氏が懐妊したとき、粛宗が「出会って10年」と述べていることによります。

1688年は張禧嬪が李昀を出産した年でもあり、1688年説が有力とみられています。

 

昍(フォン)が生まれる

1698年11月4日、榠嬪朴氏の懐妊が判明しました。

榠嬪朴氏は従四品の淑媛(スグォン)に昇格しています。

 

そして、1699年6月13日、待望の第一子である昍(フォン)が生まれました。

39歳になった粛宗の喜びは格別だったと想像できます。

 

順調に昇格する

1699年10月23日、端宗の復位を祝って、従二品の淑儀(スグィ)に昇格すると、その後、榠嬪朴氏は順調に昇格していきました。

1701年3月23日に貴人(キイン)、1702年10月18日には、側室最高位の嬪(ピン)に昇格しています。

この頃、粛宗の寵愛の相手は淑嬪崔氏から榠嬪朴氏に変わっていたのではないかと思われます。

 

榠嬪朴氏の突然の死去

順風満帆の榠嬪朴氏でしたが、1703年7月15日に突然、亡くなってしまいます。

この時、息子の昍(フォン)はまだ、5歳でした。

粛宗の落胆は大きかったといいます。

 

9月17日、榠嬪朴氏の葬儀は内命婦正1品の礼儀で行われました。

この時、粛宗は周囲の反対を押し切り、まだ5歳の昍(フォン)を延齡君に冊立しています。

 

昍(フォン)の死

粛宗は幼くして母親を亡くした昍(フォン)をより一層可愛がったといいます。

1707年2月6日には、9歳の延齡君と金東弼の娘を婚礼させています。

 

しかし、1719年10月2日、延齡君は21歳の若さで病死してしまいました。

相当なショックを受けたのでしょう、粛宗も翌年の1720年に亡くなってしまいます。

 

トンイと榠嬪朴氏の経歴比較

トンイ(淑嬪崔氏)と榠嬪朴氏がそれぞれ承恩尚宮になった後の史実を表にして比較して見ました。

実は、粛宗の寵愛を受けて承恩尚宮になったのは榠嬪朴氏の方が早かったんです。

淑嬪崔氏の史実 榠嬪朴氏の史実
1688年 承恩尚宮になる
1692年4月22日以降 承恩尚宮になる
1693年4月26日 懐妊、淑媛(スグォン)に昇格
1693年10月6日 第一子誕生
1693年12月13日 第一子死亡
1694年6月2日 懐妊、淑儀(スギ)に昇格
1694年10月31日 第ニ子クム誕生
1695年6月8日 貴人(キイン)昇格
1698年7月7日 第三子を生むが、すぐに死亡
1698年11月14日 懐妊、淑媛(スグォン)に昇格
1699年6月13日 嬪(ピン)昇格
クムを延礽君に冊立
1699年6月13日 第一子昍(フォン)誕生
<粛宗の淑嬪崔氏に対する態度が変わり始める>
1699年10月23日 淑儀(スグィ)に昇格
1701年3月23日 貴人(キイン)に昇格
1701年8月14日 (仁顕王后死去)
1701年9月23日 粛宗に張禧嬪の呪詛の件を伝える
1701年11月9日 (張禧嬪 賜薬により処刑)
1701年10月以降 梨峴宮(イヒョングン)に居所を移す
1702年10月18日 嬪(ピン)に昇格
1703年7月15日 榠嬪朴氏 死去
1703年9月3日 フォンを延齡君に冊立(5歳)
1707年2月6日 延齡君は金東弼の娘と婚礼(9歳)
1711年6月22日 粛宗が延礽君と暮らすよう御命
1716年頃から 1716年頃から病気がち
1718年3月9日 淑嬪 崔氏 48歳で死去
1719年10月2日 延齡君 21歳で死去

1698年7月7日に淑嬪崔氏が第三子を亡くして、1699年7月5日に榠嬪朴氏がフォンを生んだあたりから様子が変わりました。

榠嬪朴氏は順調に昇格していきますが、淑嬪崔氏には明るい話は見当たりません。

 

さらに、淑嬪崔氏が粛宗に張禧嬪の呪詛の件を伝えたときから、粛宗が意識的に淑嬪崔氏を避けていたように見られます。

淑嬪崔氏の移住を梨峴宮(イヒョングン)に移したり、延礽君と一緒に暮らすことを命じています。

 

まとめ

榠嬪朴氏は謎の多き女性でした。

家族関係については、ほとんど分かることはありませんでした。

 

しかし、息子の昍(フォン)を生んでから、明らかに粛宗の寵愛は淑嬪崔氏(トンイ)から榠嬪朴氏に変わっていったと思われます。

その愛する女性とその息子を失った粛宗の落胆ぶりは見るに堪えなかったことでしょう。

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