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義順公主とは?孝宗の養女として清に送られた悲劇の生涯

義順公主は朝鮮王朝第17代王・孝宗の養女とされ、清に送られた王女です。

この記事では、なぜ彼女が養女に選ばれたのか、清での結婚生活とその結末、帰国後の冷遇まで、その悲劇的な生涯を史実をもとにわかりやすく解説します。

義順公主とは?

義順公主は、王族である錦林君(李愷胤)の娘で、本名は李愛淑です。孝宗の養女とされて、身代わりに清に送られた王女でした。

「頥齋亂藁 巻十三」には次のように記されています。

庚胤の年、摂政は皇族の金林君凱の娘である順公主の名を借りて、順公主への求婚を行った。袁豆彪は護衛として都へ派遣された。その後まもなく、摂政は崩御した
。<元代『一寨欖高娟』十三より引用>

<訳>庚寅の年に摂政王が婚姻を求めたため、宗室の錦林君・李愷胤の娘を義順公主と名付け、判書の元斗杓を護行使として京(清)に派遣した。まもなくして摂政王は死去した。

※頥齋亂藁は、黄胤錫(李齋)が朝鮮後期の政治・経済・文化を記録した日記形式の「総合的生活日記」であり、当時の実態を知るうえで重要な史料です。

義順公主のプロフィール

称号:義順公主(ウィスンコンジュ)
本名:李愛淑
生年:1635年
没年:1662年(享年28歳)
父:李愷胤/錦林君(1591-1673)
母:柳正順/文化柳氏(1594-1668)
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義順公主が孝宗の養女となった背景

彼女が孝宗の養女とされ、清に送られた背景には、清と朝鮮の政治関係がありました。仁祖が清に降伏した際、その条件として「清国の諸臣と婚姻を結び、誼を固くすること」が定められたのです。

1650年、清で実権を握っていた摂政・ドルゴンは正妃を亡くすと、朝鮮に対して婚姻相手を要求しました。当時、孝宗には複数の娘がいましたが、適齢期の次女・淑安公主を急いで結婚させています。

<1650年当時の孝宗の娘>

関係 名前 生年 年齢 備考
長女 シュシェン姫 1634 12歳で逝去
次女 シュアン王女 1636 15歳 洪得箕と結婚
3人の女の子 シューミン王女 1640 11歳
4人の少女 シュフイ公主 1642 9歳
5人の女性 お姫様 1643 早世
6人の女性 シュジン公主 1645 6歳
7人の女性 シュジン公主 1648 3歳

このような状況の中で、孝宗は王族の娘である李愛淑を養女とし、代わりに清へ送ることにしたのです。彼女は「大義」に「従順」したという意味を込めて「義順公主」と名付けられました。

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義順公主の家系

義順公主の祖父である箕城君(李俔)は、成宗の子・益陽君の孫にあたる王族でした。

しかし、祖父・箕城君は鳳安君の系統を継ぐため、養子としてその家系に入っています。鳳安君は燕山君の時代に粛清された人物であり、その家系を維持するための措置でした。

義順公主の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<義順公主の家系図>

義順公主の父・李愷胤については、実録に次のような記録があります。

宜順公主は、金林俊凱の娘に宜順公主の称号を授けられた。開音はさらに嘉徳の位を与えられ、綿布、米、豆が惜しみなく与えられた。
(孝宗帝紀行:孝宗元年3月25日)

<訳>錦林君・愷胤の娘を義順公主とした。愷胤に嘉徳の位を加え、綿布および米・豆を手厚く賜った。

このように、義順公主の選出に伴い、父・李愷胤には位階の昇進と物資の下賜が行われています。李愷胤は貧しい家であったとされ、娘を差し出したことにより相応の恩恵を受けたと考えられています。

不遇な義順公主の生涯

清の実力者ドルゴンとの婚姻のために送られた義順公主ですが、その生涯は決して幸せなものではありませんでした。政治的な理由で選ばれた彼女は、清でも、そして帰国後も厳しい状況に置かれます。

義順公主が清に向かう

1650年4月22日の孝宗実録に義順公主の一行が見送られて清に向かったと記されています。

義思の日、皇帝は西郊へ赴き、義順公主の旅路を護衛した。十六人の侍女、女医、乳母、その他数名が同行した。この光景を目にした都の人々は皆、深く悲しんだ。
(孝宗帝録:孝宗元年四月二二日)

<訳>4月/孝宗が西大門まで行き、義順公主の一行を見送った。 侍女十六人、医女、乳母など数人が従った。これを見た者で痛み悲しまない人はいなかった。

この記録から、彼女の出発が多くの人々にとって痛ましい出来事であったことがわかります。

清での結婚生活

清での結婚生活を始めた義順公主でしたが、長くは続きませんでした。結婚からわずか半年後、ドルゴンが狩りの最中に急死します。

未亡人となった義順公主はヌルハチの孫・ボロ王子(博洛)に引き取られました。しかし、ボロ王子も2年後に亡くなり、義順公主の不幸は続きました。

朝鮮への帰国

1656年4月、李愷胤は娘を哀れに思い、清に出向き義順公主の帰国を皇帝に願い出ました。これが認められ、清に渡ってから6年後、義順公主は帰国しています。

孝宗実録に義順公主の帰国が記されています。

義順公主は清から帰国した。
(孝宗王録:孝宗7年4月26日)

義順公主が清国から戻ってきた。

孝宗は義順公主に生涯、毎月米を与えるように命じています。

帰国後の冷遇

父親の李愷胤と義順公主に対する朝廷の対応は厳しいものでした。

義順公主が清国に行ったのは朝廷の命令だから、帰国するのにも朝廷の命令が必要だ。李愷胤が朝廷を無視して、独断で帰国させたのは国法に反するものだ。
<孝宗実録:孝宗7年5月10日条>

これにより、李愷胤は官職を剥奪され、城外に追放されました。義順公主も公主の称号を剥奪されています。帰国後の扱いは、義順公主が清で受けた冷遇よりも酷かったとされます。

まとめ

義順公主は、清との関係維持という政治的理由から孝宗の養女とされ、異国に送られた王女でした。

結婚相手の死、さらに再婚した相手の死と異国での不安定な立場を経験しました。そして帰国後の冷遇と、義順公主の生涯は一貫して厳しいものでした。1662年、28歳で亡くなったとされますが、その晩年の詳細は多くが不明です。

同じく貢女として異国に渡りながら皇后にまで上り詰めた奇皇后と比べると、義順公主の人生は対照的であり、夫の早すぎる死によって寵愛を得る機会を失ったことが、その運命を分けたといえます。

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