義順公主は孝宗の養女となって清国に送られた王女です。
その生涯はほとんど知られていません。
義順公主の悲しい生涯を詳しくご紹介します。
孝宗の養女となった義順公主
孝宗の養女・義順公主は王族である錦林君(李愷胤)の娘でした。
実は、義順公主は清への貢女だったのです。
仁祖が清に降伏したとき、降伏の条件として「清国の諸臣と婚姻を結び、誼を固くすること」という条件がありました。
1650年、清で実権を握った皇族ドルゴンは朝鮮に対して、婚姻相手を要求してきたのです。
孝宗は次女の淑安公主は慌てて結婚させ、未婚の娘は幼子ばかりとしました。
<1650年当時の孝宗の娘>
関係 | 名前 | 生年 | 年齢 | 備考 |
長女 | 淑慎公主 | 1634年 | ー | 12歳で逝去 |
次女 | 淑安公主 | 1636年 | 15歳 | 洪得箕と結婚 |
三女 | 淑明公主 | 1640年 | 11歳 | |
四女 | 淑徽公主 | 1642年 | 9歳 | |
五女 | 公主 | 1643年 | ー | 早世 |
六女 | 淑静公主 | 1645年 | 6歳 | |
七女 | 淑敬公主 | 1648年 | 3歳 |
孝宗は王族李愷胤の娘を養女とし、自分の娘として清の皇族ドルゴン(摂政)に送りました。
李愷胤の娘は「大義」に「従順」したという意味で義順公主と名付けられました。
義順公主のプロフィール
称号:義順公主(ウィスンコンジュ)
本名:李愛淑
生年:1635年
没年:1662年
享年:28歳
父:李愷胤
兄弟姉妹:7男3女の三女
義順公主は李愷胤の三女で成宗の五代目の子孫に当たります。
李愷胤は非常に貧しい家でしたが、娘を差し出すことで絹80反と銀1000両の大金を得たと言われています。
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義順公主の家系
義順公主の祖父の箕城君(李俔)は成宗と淑儀洪氏の息子の益陽君(李懐)の孫でした。
しかし、成宗と貴人鄭氏の息子の鳳安君(李㦀)の孫として養子になっています。
<義順公主の家系図>
貴人鄭氏は母親の恨みから燕山君に殺害された側室です。
その息子の鳳安君(李㦀)も翌年に殺害されています。
しかし、鳳安君(李㦀)には息子がいて、そこに義順公主の祖父の箕城君(李俔)が養子に入ったのです。
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不遇な義順公主の生涯
当時、実権を握っていた皇族ドルゴンの結婚相手として送られた義順公主でした。
しかし、その生涯は決して幸せなものではありませんでした。
義順公主が清に向かう
1650年4月22日の孝宗実録に義順公主の一行が見送られて清に向かった記録が残されています。
乙巳/上幸西郊, 送義順公主之行。 侍女十六人、女醫、乳媪等數人從之, 都民觀者, 無不慘然。<引用元:孝宗実録1650年4月22日から抜粋>
清での結婚生活
義順公主の一行を迎えたドルゴンは義順公主の美貌のなさと侍女たちの醜さが気に入らず、朝鮮は「不誠実だ」と非難しました。
孝宗はドルゴンの怒りを抑えるために、さらに侍女を送ったといいます。
清での結婚生活を始めた義順公主ですが、ドルゴンが狩りの最中に突然亡くなってしまいました。
結婚後、半年のことです。
未亡人となった義順公主はヌルハチの孫のボロ王子(博洛)に引き取られました。
しかし、義順公主の不幸は続きました。
ボロ王子も2年後に亡くなってしまうのです。
朝鮮への帰国
1656年4月、娘を哀れに思った父親の李愷胤は清に行き、義順公主の帰国を皇帝に哀願しました。
皇帝がこれを許可、清に渡ってから6年、義順公主の帰国が許されました。
1656年4月26日の孝宗実録に義順公主が帰国したことが記録されています。
義順公主還自淸國。
<引用元:孝宗実録1656年4月26日>
孝宗は義順公主に生涯、毎月米を与えるように命じています。
帰国後の悲しい扱い
父親の李愷胤と義順公主に対する朝廷の対応は冷たいものでした。
それは、
<孝宗実録1656年5月10日の記録より>
と言うものでした。
これにより、李愷胤は官職を剥奪され、城外に追い出されました。
義順公主も公主の称号を剥奪されています。
帰国後の扱いは、義順公主が清で受けた冷遇よりも酷かったと言われています。
まとめ
孝宗の養女とされ清に貢女として差し出された義順公主の人生はとても悲しいものでした。
帰国後も酷い扱いを受け、1662年28歳の若さで亡くなっています。
貢女から皇后になった奇皇后と比較する大きな運命の差を感じざるを得ません。