イソンゲの次の王は定宗です。
意外にも、イバンウォン(太宗)ではありませんでした。
なぜ定宗が即位したのか、太宗はなぜすぐに王になれなかったのか。
歴史の裏側を掘り下げます。
定宗とは誰? なぜ「次の王」になったのか?
イソンゲ(太祖)の次の王は次男のイバングァ(定宗)です。
第一次王子の乱で、世子(弟のイバンソク)や鄭道伝らイソンゲの重臣を排除したイバンウォンが王位に就くと思われました。
しかし、彼は兄のイバングァを王に即位させました。
これは、王室の長期安定化のために長子継承の原則を徹底させたかったものと思われます。
自分を無視して8男のイバンソクを即位させたイソンゲに対する腹いせもあったのかもしれません。
【PR】スポンサーリンク定宗の短い治世|実権を握っていたのは誰か?
イバングァに王位を譲ったイバンウォンでしたが、イバングァ(定宗)は名ばかりの王で、イバンウォンが裏で実権を握っていました。
四男・イバンガンが王位を狙い反乱(第二次王子の乱)を起こしますが、イバンウォンにより簡単に鎮圧されます。
この後、イバンウォンは即位しますが、このときの様子を実録では次のように記録しています。
まさか、今月十一日に突然の敎旨(詔命)が下り、王位を譲ると命じられた。何度も辞退したが、決定は覆らないので、十三日(今日)、私(イバンウォン)は壽昌宮で即位した。
<引用元:太宗実録1400年11月13日>
定宗が自ら王位を譲る意思を示したような形になっていますが、実際はイバンウォンの恐ろしさに恐怖を抱いた定宗が王位を譲っています。
定安王后が強く譲位を勧めたことも、譲位の後押しになったと言われています。
譲位後の定宗は政治には関わらず、狩りや宴会を楽しみ余生を送りました。
詳しくは>>定宗の家系図【生涯、弟を恐れ、弟に操られた王】
【PR】スポンサーリンク太宗:真の王者、イバンウォンの治世
イバンウォンは遂に、朝鮮第3代王・太宗に即位しました。
太宗(イバンウォン)は、朝鮮王朝の基盤を整えた実質的な創設者とも言われています。
彼が実施した主な政策は
・官僚制度の整備
・仏教勢力の抑制
などで、絶対的な中央集権国家としての体制を固めました。
詳しくは>>李芳遠(イバンウォン)の家系図【血の抗争を展開した家族】
【図解】系図と王位継承の流れ
イソンゲ(太祖)に始まった朝鮮王朝は実質権力者の太宗を経て、朝鮮最高の名君と言われた世宗に引き継がれていきます。
以下の図は、イソンゲとその息子たちの王位継承の関係を示したものです。
<朝鮮王朝初期の王位継承図>
<王位継承の過程>
年月 | 年月 | 出来事 |
1398 | 8 | 第一次王子の乱が勃発。次男の李芳果が王世子になる |
10 | 太祖が退位。李芳果が第2代王(定宗)に即位する | |
1400 | 1 | 第二次王子の乱が発生。李芳遠が鎮圧する |
4 | 李芳遠が王世子となる | |
11 | 定宗が譲位、李芳遠が第3代王(太宗)に即位する | |
1418 | 6 | 譲寧大君が世子を廃位。忠寧大君(世宗)が世子になる |
9 | 太宗が譲位、忠寧大君が第4代王(世宗)に即位する |
太宗の最大の功績は、王権の邪魔となる権力を徹底的に排除して、息子・世宗が理想の政治を行える基盤を築いたことと考えます。
よくある質問(FAQ)
- Q:イ・ソンゲの次の王様は誰ですか?
A:次男のイバングァ(李芳果)です。彼は後に定宗と称されます。 - Q:なぜイバンウォン(太宗)はすぐに王にならなかったのですか?
A:長子継承の原則を徹底して、以降の王位継承を安定化させたかったためです。 - Q:イバンウォンはなぜ、定宗を排除しなかったのですか?
A:兄弟をこれ以上、粛清したくなかったことと、定宗が比較的穏やかな性格であったことが影響していると考えます
まとめ
イソンゲの次の王は定宗でしたが、実質的な王はイバンウォン(太宗)でした。
イバンウォンは、イソンゲの後にすぐには王位に就かず、原理原則を徹底するのと同時に、着実に朝鮮王朝の基盤を築いていきました。
こうした、歴史の裏側を知ることで、朝鮮王朝の始まりがより立体的に見え、ドラマをより深く理解することができます。