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朝鮮時代全般に関する史料
承政院日記(スンジョンウォンイルギ)
承政院日記は、朝鮮王朝時代の承政院(スンジョンウォン)の業務日誌です。
承政院は王命の伝達と臣下の上奏を報告する官庁です。
承政院日記を記録する方法
承政院日記を記録する方法には2つの方法がありました。
一つは、常に王のそばに居て重臣との会話から王の行動や健康状態までを細かく記録する方法です。
もう一つは、上訴のような文章を書き写す方法でした。
記録された日記は、毎月、王の承認を得て承政院に保管されました。
承政院に関しては、ドラマ「恋慕」に詳しく描かれています。
ドラマの中で、ジウンが王様の側で承政院日記を記録している場面が出てきます。
また、時代劇を注意して見ていると、王様と重臣の会議で座って書記をしている人を見かけることがよくあります。
<朝廷で記録をとる二人>
実はこの二人は、史官(サグァン)と注書(チュソ)と呼ばれ、所属も書いている内容も違います。
史官は礼曹に所属して、朝鮮王朝実録の基礎資料を収集していました。
一方、注書は承政院に所属して、王の行動と会話を逐一記録する承政院日記を書いていました。
注書は昼間は、王に付き添いあらゆる言動を速記で記録、夜に速記で記録した内容を整理して、毎月承政院日記として編集しました。
王の発言はもちろんの事、王がつぶやいた愚痴まで記録されています。
承政院日記のもう一つの役割
承政院日記は誰でも簡単に閲覧できました。
従って、王と重臣の会話が全て記載されているので、議事録の役割を果たしたといいます。
しかし、承政院日記の最大の役割は、王の自制の促す作用だったと言われています。
常に言動を記録されることが、王の横暴さや無責任さを防ぐ作用になったのです。
驚くほど膨大な記録
日常を記録した承政院日記の量は膨大なものですが、残念ながら政変や英祖の時代の火災で多くが消失してしまいました。
現存するのは、1623年3月(仁祖の時代)から1910年8月(純宗の時代)までの全3,243冊、393,578ページ、文字にして2億4,250万字です。
それでも、世界最大級の歴史記録文章として、2001年にユネスコ指定世界記録遺産に登録されました。
現在はソウル大学に保管されています。
朝鮮王朝時代の288年間の天候も正確に記録されているから驚きです。
消された思悼世子の記録
ドラマ「イ・サン」の中で、1762年の思悼世子の記録を承政院日記から抹消する作業(洗草(セチョ))が出てきます。
これは、思悼世子に関する侮辱的な内容や酷い仕打ちの記録を消すためで、正祖が英祖にお願いして実現しました。
承政院日記から削除されれば、朝鮮王朝実録にも記録されることはありません。
しかし、後年、これによって思悼世子に関する正確な記録はなくなり、多くの湾曲した事柄が伝わることになりました。
朝鮮王朝実録
朝鮮王朝実録は、承政院日記、官庁の記録、個人の文集などから重要な部分を選び出して作成されました。
歴代の王ごとにまとめられ(例えば、粛宗実録など)、朝鮮王朝25代472年間の史実として記録されています。(高宗実録と純宗実録を含めると、27代519年間)
<朝鮮王朝実録>
但し、廃位された王の記録は、実録ではなく日記となっています。
つまり、燕山君(ヨンサングン)と光海君(クァンヘグン)の二人の記録は、燕山君実録、光海君実録ではなく、燕山君日記、光海君日記です。
その内容は、朝鮮王朝時代の政治、経済、法律、芸術、軍事、天候、通信、宗教などのも及び、その量は全1,894巻、888冊、6,400万字にもなります。
王に関する記載事項は、公平性を保つために王が亡くなってから編集されました。
そのため、前政権の王の業績や行いが、次の政権により意図的に変えられてしまう危険性もあったと考えられます。
実録の編集方法
実録の基本資料は、春秋館の官史(全て各官庁に所属する兼任官史)が集める公的記録(時政記)と常に国王の周辺に近侍して、その動静を記録した私記録(史草)です。
議政府、六曹、司憲府、司諫院、弘文館などの中央の重要な官庁に、春秋館の官史を兼任する約40名の官史がいました。
官員は官職生活をする合間に史草を記録していました。
国王が亡くなると、実録庁が設けられ、記録された時政記と史草が集められます。
集められた時政記と史草は検討され、実録の原稿が作られます。
これが、初草、中草、正草の三段階の校正を経て、最後の正草が実録に登録されます。
最後に初草、中草の原稿は洗草され文字は洗い落とされました。
有効だった実録の分散保管
当初、実録は四部清書されて、宮中の春秋館、忠洲、全洲、星洲の4箇所の史庫に分散して保管されました。
その後、各地に保管された実録は、1592年の豊臣秀吉の侵略で全洲に保管された実録以外は全て失われてしまいました。
分散保管という有効な対策で、世界的な史書を守ることができたのです。
1997年にユネスコ指定世界記録遺産に登録されました。
韓国で認められていない実録
朝鮮王朝実録の最後の二巻「高宗実録」と「純宗実録」はユネスコの世界記録遺産には登録されていません。
大韓民国指定国宝からも除外されています。
これは、最後の二巻が朝鮮総督府(日本が韓国を統治するための官庁)の影響下で編集されたため、記述に日本の影響が多すぎると判断されているためです。
最後の二巻「高宗実録」と「純宗実録」を含めると、27代519年間の史実を記録した1967巻948冊にも及ぶ史書となります。
難産だった最初の実録
朝鮮王朝実録は472年間の6,400万字にも及ぶ史実として記録ですが、そのスタートは「太祖実録」でした。
太祖が1408年に亡くなった翌年に、太宗は河崙(ハ・リュン)を総責任者として、実録の編集を命じました。
しかし、当時は王位争奪の激しい争いの後であり、多くの当事者がまだ生存していました。
そのため、実録は修正に修正が加わり、完成したのは第一次草稿(1413年)から32年経った1445年でした。
最初から苦難を経て完成した実録でしたが、これが何百年も続く膨大な歴史書のスタートになるとは誰も想像しなかったことでしょう。
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成宗時代の史料
秋江冷話(チュガンネンファ)
朝鮮時代前期の文臣であった南孝温(ナム・ヒョオン)が集めた詩話、逸事を編集した全66話のエッセイ集です。
太宗が王氏一族を排除するために騙して船に乗せ、水死させた話はこの「秋江冷話(추강냉화)」からの引用です。
前朝王氏之亡也, 放諸王於海島中, 謀臣皆曰: “不除必有後患, 不如殺之.” 於是惡其殺無名, 使善水者具舟, 誘諸王曰: “敎書今下, 置諸君島中爲庶人.” 諸王喜甚爭登舟, 舟離岸, 舟人穿其舟, 潛入海底, 水沒半舟, 有僧人與王氏有素者在海岸, 擧手呼之. 王氏卽口占一聯, 呼謂僧曰: “一聲柔櫓滄波外, 借問山僧柰爾何.” 僧痛哭而返.<引用元:秋江冷話から抜粋>
しかし、江華と巨済に流配された王氏一族の多くは海に投げ込まれて殺害され、このような手の込んだ事はしなかったとも言われています。
南孝溫(1454~1492)は開国功臣南在の子孫でしたが、世祖が起こした癸酉靖難を非難して官職を辞職した生六臣の一人でした。辞職後は流浪生活で人生を終えています。
著書の「六臣伝」は、粛宗の時代に刊行され、1513年には名誉が回復され、左承旨を追贈されています。
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粛宗時代の史料
謝氏南征記(シャッシナㇺジョンギ)
粛宗の時代に金萬重(キム・マンジュン)が書いた小説です。
金萬重は、仁敬王后の父である金萬基(キム・マンギ)の実の弟にあたります。
金萬重は西人が排除された己巳換局(キサファングㇰ)で流刑にされ、流刑地で謝氏南征記を書きました。
小説の内容は、
喬氏は嫉妬深く、卑劣な女性で、策略を巡らして正室の謝氏を追い出して自ら正室の座に座りました。その後、喬氏はなんと夫の劉翰林も流刑になるように策略を企て、財産を持って逃げ出してしまいます。
劉翰林はやっと謝氏を追い出したことは間違いだと気づき、謝氏を探して復縁します。そして、喬氏を捕まえて処刑してしまいました。」
これは、当時、劉翰林を粛宗、喬氏は張禧嬪、謝氏は仁顕王后に例えた物語でハングルで書かれていました。
これを金春澤(キム・チュンテク)が漢文に翻訳して両班にも広め、粛宗に読ませて仁顕王后の復位をバックアップしたと言われています。
金春澤は金萬重の兄・金萬基の孫にあたり、トンイのシム・ウンテクのモデルと言われています。
仁顯王后伝(インヒョンワンフ)
作者は不明です。
仁顯王后伝は、ドラマでも有名な禧嬪張氏の逸話を、王妃で有る仁顯王后の立場から説明して行く作品です。
隨聞録(スムンロク)
著者は儒生の李聞政(イ・ムンジョン)です。
李聞政は、1721年に隨聞録を書きました。
隨聞録には、トンイ(淑嬪崔氏)に関する興味があることが多く載っています。
例えば、廃位された仁顕王后のために部屋で祈願していたトンイ(淑嬪崔氏)を粛宗が見かけたというエピソードです。
また、張禧嬪(チャン・ヒビン)が、淑嬪崔氏(トンイ)に酷い仕打ちをしたとのエピソードも記載されています。
淑嬪崔氏神道碑銘
淑嬪崔氏神道碑銘は、1725年に英祖が建立した石碑に書かれた文章です。
淑嬪崔氏に関する事柄が記載されています。
例えば、生まれた年や家族のこと、入宮した年齢、亡くなった年、素晴らしい女性であったことなどが書かれています。
<淑嬪崔氏神道碑銘の原文>
我 殿下受命踐阼之元年乃 先淑嬪崔氏旣卒之八年也因有司考例陳請
命樹麗之石其文則不以 名詞臣而以 命臣弼成旣また之辭屢所不取亦非先嬪平日小心謹愼之意其念哉臣弼成承
命悸恐屢辭終不捕 命則謹稽行錄崔氏系出首陽曾祖諱末貞階學生考諱孝元行忠武術副司果妣洪氏通政繼南女也以顯廟庚戌十一月己未生
嬪丙辰選入宮甫七歲淑媛甲戌進 淑儀乙亥陞 貴人越四年己卯封 淑嬪女官極品也
嬪天姿沈凝簡默喜怒不形於色奉侍諸嬪曁宮人旣遜旣和俱得其懽心
上心重之奧我 仁顯王后曁我 惠順慈敬大妃亦特遇之有言輒加誨責一宮之內翕然稱美焉
嬪同气之的軍門者自嬪封爵辭遆其任屬之內司 嬪知
聖意出公節儉克賛不色吝自丙申遘疾三載次淹間有因
上命出第調治而久闕承疾病而其誠敬之不替如此戊戌三月九日戊午卒于彰義洞私第春秋四十九寔肅宗四十四年也三殿遣中宮吊祭賵賜特厚哀榮備至以年五月嚚葬于楊州高嶺洞瓮場里枕酉之原嬪生三男惟我主上殿下序居第二伯季生即天我氏
贈領議政達城府院君宗悌女也
王世子邸下靖嬪李氏所誕初封敬義君乙巳進册
儲副王女和順翁主幼未下嫁竊伏念 嬪柔嘉其性淑愼其儀敦重靚穆溫恭和順承
寧考思遇垂三十戴而勤儉自持卑巽以牧閔敢以榮貴少移所守肆惟 壺闈之間德意之融洯無間可」
以輝暎彤管儷美徃牒則其迓迎天篤生聖人承列聖艱大之投綿宗祊千億之祚者其必有由然矣臣於摭實之文寧質無華庶以仰體
聖意而仍また繼之以銘曰」天鍾異姿 旣淑かつ靈塞淵其德躬 卜叶大橫 天佑吾東
丕承丕顯 祚命靈長 善慶之徵 厥理式章建」
英祖時代の史料
英祖の時代に書き残された史料をご紹介します。
燃藜室記述
燃藜室記述は、李肯翊(1736-1806)が朝鮮に存在する様々な「野史」を編纂した歴史書(野史)です。
「燃藜室」は李肯翊の号を表しています。
朝鮮初代王・太祖から第19代王・粛宗の時代までの様々な文献を引用して編纂していますが、自身の意見は記述せず、引用元をキチッと明記しているのが特徴です。
また、李肯翊は本文に余白を設けておき、新しい資料を発見すると、随時記入していく方法をとりました。
他の人々にも同じ方法で補充させたため、定本となる原本が存在していません。
最も長く継承されたものは、大韓帝国最後の皇帝・純宗の代まで後世の人々により書き継がれています。
李肯翊が書き加えたものは、英祖の時代(1776年頃まで)に一旦、完成したと考えられています。
「定本」に近いものとしては、1913年に朝鮮古書刊行会で刊行されたものがあり、原集33巻(太祖~顕宗)、続集7巻(肅宗)、別集19巻、全59巻から構成されています。
正祖時代の史料
正祖の時代に書き残された史料をご紹介します。
弘斎全書
弘斎全書は、正祖の詩文や訓諭,敎旨(官僚の任命状)など様々な内容の文章を集めた184巻100冊に及ぶ膨大な全集です。
朝鮮歴代国王の著述の中でも最も多い分量です。
<弘斎全書>
弘斎全書は正祖の生存時から整理され始め、計4回の編纂を経て1814年3月に完成されました。
現在は水原華城博物館に184巻100冊が完全な状態で保存管理されています。
弘斎全書の中に臣下たちが正祖の言葉を集めた語録「日得録」があります。
日得録には「昨晩は徹夜で本を読んでしまった」と侍臣に語った言葉など、正祖の普段の様子を垣間見る言葉が記録されています。
閑中録(ハンジュンロク)
正祖の母であるへ恵慶宮洪氏が書いた自伝的な回顧録です。
恨中録(ハンジュンロク)とも呼ばれています。
恵慶宮は文才に秀でていて、文章はとても流暢で文学的な価値のある史料です。
内容は自ら経験した宮中の出来事を写実的に表現したものです。
英祖によって思悼世子が米びつに閉じ込められて死んだ事件である壬午禍変(イムオファビョン)を含めて、全6巻で構成されています。
第1巻(61歳作):恵慶宮の幼少期と世子嬪になってからの宮中生活の記録
第2巻(67歳作):一族の没落に関する記録(純祖に向けて)
第3巻(68歳作):一族の無念を中心に記録(純祖に向けて)
第4巻(71歳作):思悼世子の死の真相を記録
承政院日記か思悼世子の記録が記録が消されてしまった今、壬午禍変について知る唯一の史料となっています。
書堂(ソダン)で使われた学習書
書堂とは将来の官僚を目指す7歳頃からの幼児が通った私設の学校です。
千字文
初歩的な漢字の学習書。
重複しない四字熟語250個が記載されており、合計で1000文字の漢字を学習することができます。
例えば「天地玄黄」を「空の天、地面の地・・・」などのように暗唱しながら覚えていきます。
童蒙先習
千字文を覚えた子供が次に学習する書。
書は「五倫、儒学総論。中国および朝鮮の歴史」から構成されています。
儒教思想や歴史について、解説した学習書です。
小学
ドラマでよく登場する学習書です。
朱熹が劉子澄に編纂させた儒教の入門書です。
日常生活の礼儀作法や生活の基本となる忠孝について書かれています。
しかし、名前からイメージするような簡単な内容ではなく、官僚を目指すなら青年になるまでに熟知すべき内容でした。
明心宝鑑
儒教の基本的な学習書。
孔子・孟子・老子・荘子をはじめとする先儒・先賢の言葉を分類して集めたものです。