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燕山君(ヨンサングン)の家系図【歴代最悪の暴君の家系とは】

歴代最悪の暴君と言われる国王が第10代国王の燕山君(ヨンサングン)です。

燕山君はどんな家系で育ったのか?

何故、歴代最悪の暴君と言われるのか?

燕山君の家系図から詳しく調べてみました。

 

燕山君(ヨンサングン)の家系図

燕山君(ヨンサングン)の曽祖父 (そうそふ) 、つまり、ひいおじいさんが第7代国王の世祖です。

燕山君の家系図

<燕山君の家系>

燕山君の祖父は懿敬世子(ウィギョンセジャ)ですが、19歳の若さで病死したため王にはなれませんでした。

そこで、懿敬世子の弟が第8代国王・睿宗(イェジョン)に即位しますが、たった1年2ヶ月の在位で亡くなってしまいます。

まだ19歳でした。

病弱だったと言われています。

 

睿宗が亡くなれば睿宗の長男が後を継ぐのが正当な王位継承ですが、睿宗の息子(仁城大君)は王位を継ぐには幼すぎました。

そこで、燕山君の父が第9代国王・成宗として王位を継ぎました。

 

本来は成宗の兄(懿敬世子の長男)の月山大君(ウォルサンデグン)が王位を継ぐべきでした。

しかし、当時の権力者・韓明澮は月山大君が病弱であることを理由に成宗を王にしました。

韓明澮は娘(恭恵王后)の夫である成宗を王に据えたのです。

 

成宗が38歳で亡くなると、正室に息子がいなかったことから、側室・廃妃尹氏(ペビユンシ)の長男である燕山君が王に即位します。

18歳で王に即位した燕山君は、当初は安定した政治でしたが、母親の尹氏の死の経緯を知ると暴君へ豹変していきます。

ここまでの流れは、成宗の母親である仁粋大妃(インステビ)の生涯をドラマ化した「仁粋大妃」で詳しく描かれています。

 

燕山君が母親の死について知ったのは、ドラマにより即位後のイメージが強いのですが、実は、亡くなってすぐの幼少時代とも言われています。

<目まぐるしく変わる王>
1457年:懿敬世子が19歳で病死
1468年:世祖が病死、睿宗18歳で王
1469年:睿宗19歳で病死、成宗13歳で王
1494年:成宗が病死、燕山君18歳で王
1506年:クーデター(中宗反正)で燕山君が廃位、中宗が王に

 

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燕山君(ヨンサングン)の家族構成

燕山君(ヨンサングン)の正室・廃妃慎氏との間には2男1女の子供がいましたが、クーデター後に正室は廃位されました。

燕山君は多くの側室を持ち、手を付けた宮女や妓生は数え切れないと言われています。

そして、その側室の中には、後に朝鮮三大悪女と言われる張緑水(チャン・ノクス)がいました。

<燕山君の家族>

第10代王・燕山君
正室 廃妃慎氏 2男1女 廃世子(李◯) 中宗反正後、賜死
昌寧大君(李誠) 中宗反正後、賜死
徽順公主 両親と共に廃位
側室 淑儀李氏 1男 陽平君(李仁) 中宗反正後、賜死
淑儀尹氏 子女なし
淑儀郭氏 子女なし
淑儀権氏 子女なし
淑儀閔氏 子女なし
淑容 張緑水 1女 翁主 李霊寿 張緑水は中宗反正後、斬首刑
淑容 田非 1女 翁主
淑媛崔氏 子女なし
淑媛張氏 子女なし
淑媛李氏 子女なし
淑媛 金貴非 子女なし 金貴非は中宗反正後、斬首刑

他い多くの宮女や妓生を抱えていました。

 

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燕山君(ヨンサングン)の生母・廃妃尹氏

廃妃尹氏(ペビユンシ)は物凄く嫉妬深い女性だったと言われています。

1473年に廃妃尹氏は成宗の寵愛を受けて側室の淑儀(スグィ)になりました。

 

そして、最初の王妃である恭恵王后が亡くなると、成宗は周囲の反対を押し切り廃妃尹氏を王妃としました。

その時には既に、お腹の中には燕山君(ヨンサングン)がいました。

 

燕山君を出産すると、廃妃尹氏の権限は強くなります。

嫉妬深さも重なって、成宗の寵愛を受けた女官の殺害するなど、廃妃尹氏の行動は見るに耐えなくなります。

特に、成宗が側室の貴人鄭氏と貴人厳氏を寵愛していたことは気に入りませんでした。

 

目に余る行動に激怒した成宗は、1479年、遂に廃妃尹氏を王妃から嬪に降格させます。

更に、久しぶりに廃妃尹氏の下に訪れた成宗の顔を口論の末、爪で引っ掻くという大罪を犯してしまいます。

 

そして、1482年に廃位となった尹氏は毒薬により死罪となりました。

廃妃尹氏は燕山君が復位させて斉献王后(チャホンワンフ)と追号しましたが、中宗反正により再び廃位されています。

廃妃尹氏について詳しくは>>廃妃尹氏の家系図【燕山君の母は生前に廃妃になった最初の王妃】

 

歴代最悪の暴君と言われる理由

燕山君が歴代最悪の暴君と言われる理由は数え切れません。

 

史上最悪の粛清「甲子士禍」

まずは、何と言っても母親の恨みから関係したものを粛清した1504年の甲子士禍(カプチャサファ)でしょう。

亡くなった人の数は正式な記録では239人となっていますが、使用人などの関係するものを入れれば、なんと3000人にも及ぶといわれています。

 

この粛清事件は成宗が自分の死後100年間は廃妃問題を論じないよう遺言したにも関わらず、燕山君の側近が母親の賜死の経緯を告げ口したことによります。

亡き母の遺品を見せられた燕山君は逆上して、母親の死に関わった関係者全ての処罰を命じました。

 

残虐な粛清の期間は7か月以上に渡り、多くの人が死刑や流刑に処されました。

亡くなった者は、墓を暴いて首をはねるほどの執念深さでした。

 

成宗が寵愛した側室の貴人鄭氏と貴人厳氏は燕山君自らが残虐な方法で殺害しています。

そして、燕山君の祖母である仁粋大妃(インステビ)も燕山君から酷い虐待を受けたと言われています。

 

信じられない豪遊

燕山君は遊びでも信じられない遊興をしていました。

世祖が建てた円覚寺を王の享楽の場である掌楽院に変えて、朝鮮全土から綺麗な女性を集めました。

 

また、国立大学に相当する成均館も妓生らとの遊興の場にしてしまいました。

そして、燕山君に諫言(かんげん)する家臣たちをことごとく残酷に処刑してしまいました。

 

残虐な戊午士禍

1498年の戊午士禍(ムオサファ)は燕山君が即位後、最初に行った士林派を一掃した粛清事件です。

燕山君は事あるごとに諫言する士林派を日頃から鬱陶しいと思っていました。

そこに、士林派が提出した成宗実録の史草の中に世祖の王位継承に関して誹謗中傷があったと勲旧派が上疏(じょうそ)します。

 

士林派を排除したい勲旧派と思惑が一致した燕山君はこれを口実に士林派を一掃すべく粛清を始めます。

記録では52人の士林派が処刑されたと言われています。

粛清の方法は残虐を極めました。

 

燕山君が育った家庭環境

燕山君の実の母である廃妃尹氏は、燕山君が7歳のときに毒により処刑されています。

燕山君が3歳のときに廃妃尹氏は王妃を廃位され、燕山君はその後に王妃になった貞顕王后の息子として育てられます。

燕山君は実の母親と思っていたようですが、当然、実の息子でない燕山君に貞顕王后が温かい愛情を注いだ記録はありません。

 

また、燕山君の実の父親である成宗は厳しく接したといいます。

成宗が世子として厳しく接したのか、もう愛情の無くなった廃妃尹氏の息子として厳しく接したのか、今となっては分かりません。

しかし、燕山君がそんな父親である成宗をよく思っていなかったことは想像できます。

 

そして、何より孫であれば愛されるはずの仁粋大妃から冷遇されていたことは、偏屈で残虐な燕山君の性格形成に大きく影響したことは間違いないでしょう。

このように燕山君は誰一人として味方のいない愛情のない環境で育ったことになります。

これが、残虐な暴君・燕山君のベースになっています。

 

燕山君の生涯

1476年11月7日、燕山君は第9代国・成宗と廃妃尹氏(斉献王后)の間に長男として生まれました。

母の廃妃尹氏は2ヶ月前の8月9日に王妃になったばかりでした。

 

母・廃妃尹氏の処刑

嫉妬心の強かった廃妃尹氏は次第に目に余る行動でたびたび問題を起こし始めました。

そして、1479年、遂に、廃妃尹氏は王妃を廃位され、3年後の1482年には賜死となります。

このとき、燕山君はまだ7歳、母の死の真相は知らされませんでした、

1483年、燕山君は8歳で王世子に冊封されています。

 

第10代王に即位

1494年、成宗が亡くなると、燕山君が19歳で第10代王に即位しました。

王に即位した当初の燕山君は真面目に政治に取り組んだといいます。

国内では貧しい民を救済し、国外では女真族などの外敵の侵略を阻んで政治も安定していました。

 

2回の粛清で凶悪な暴君に

1498年に戌午士禍(ムオサファ)、1504年に甲子士禍(カプチャサファ)と2回の粛清が行われました。

戌午士禍は、成宗実録の記載をめぐり、勲旧派が士林派を弾圧した事件で、52人の士林派が処刑されたと言われています。

 

甲子士禍は、母・廃妃尹氏の賜死に関係した者を捕らえて処刑した事件です。

この2回の粛清を通して、邪魔者を排除した燕山君は自由奔放な暴君として君臨していきます。

 

燕山君は全土から一般女性や妓生を宮廷に集め、朝から晩まで享楽にふけったといいます。

諫言する臣下たちはことごとく残酷な刑罰で処刑したため、誰も燕山君を止めることはできませんでした。

 

朝鮮初の反正が勃発

1506年9月2日、遂に臣下たちが燕山君の専横に耐えきれず、クーデターを起こしました。

朝鮮初の反正である中宗反正の勃発です。

「反正」とは乱れた世の中を改めて、正常な世に戻すという意味です。

 

クーデターの中心は朴元宗、成希顔ら勲旧派でした。

燕山君をそそのかした任士洪、金子猿及び燕山君の寵愛を受けた悪女の張緑水もこの時に処刑されています。

 

燕山君の最後

燕山君は捕らえられて廃位、江華島に配流となり、2カ月後に31歳で亡くなっています。

正妃の慎氏も同時に廃位され、残された王子たちは処刑、王女たちは全て奴婢にされてしまいました。

 

燕山君(ヨンサングン)が登場するドラマ

燕山君(ヨンサングン)が暴君化していく過程を母親の廃妃尹氏の行いから見るのであれば長編ですが、「インス大妃」がおすすめです。

<燕山君が登場するドラマ>
1984年:朝鮮王朝五百年 雪中梅
1994年:韓明澮 〜朝鮮王朝を導いた天才策士〜
1995年:王妃チャン・ノクス 〜宮廷の陰謀〜
1998年:王と妃
2003年:宮廷女官チャングムの誓い
2007年:王と私
2012年:インス大妃
2017年:逆賊-民の英雄ホン・ギルドン-
2017年:七日の王妃

 

まとめ

燕山君(ヨンサングン)の家系図を追いながら、燕山君が暴君化していく過程を調べました。

燕山君は父親の成宗や祖母のインス大妃からも冷たく扱われ、愛情のない家庭で育ちました。

そのせいか、性格は粗暴で偏屈、人への恨みを根に持つ、執念深い性格でした。

 

そんな燕山君にとって、実の母親の真実が燕山君の冷たい残虐な性格を覚醒させたことは間違いありません。

燕山君が行った悪行を調べれば調べるほど、燕山君が歴代最悪の暴君であることが確証されます。

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