ときには、名君と称される成宗ですが、成宗とはどんな王だったのか?
成宗の家系図と人物像を詳しく解説します。
成宗の家系図
成宗は第7代王・世祖の孫で、父は短命だった第8代王・睿宗です。
若くして即位したため、当初の成宗は大妃や院相に権力を握られた不甲斐ないお飾り的な王でした。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<成宗の家系図>
成宗のプロフィール
成宗は小さい頃から聡明で、射芸、書画に優れていたので祖父の世祖に大変可愛がられました。しかし、彼も父親に似たのか、体は強い方ではありませんでした。
第9代国王
生年:1457年7月30日
没年:1495年12月24日
享年:39歳
在位:1469年11月28日-1495年12月24日
諱:李娎(イ・ヒョル)
廟号:成宗(ソンジョン)
父:懿敬世子
母:昭恵王后(仁粋大妃)
陵墓:宣陵
成宗の異例の即位|貞熹王后の思惑
第8代王・睿宗が亡くなると、貞熹王后はすぐに孫の李娎(イ・ヒョル)を次の王に決めました。王の死と同日に後継者を立てるのは、朝鮮王朝では異例のことです。
その背景には、貞熹王后の思惑がありました。李娎の妻は当時の実力者・韓明澮の娘。貞熹王后は韓明澮と手を組み、朝廷を掌握しようとしたのです。
当時、王位継承の候補には、睿宗の息子・斉安君と、成宗の兄・月山君がいましたが、斉安君は幼く、月山君は病弱だったことを理由に除外しています。
こうして、貞熹王后は自ら垂簾聴政で王権を握り、韓明澮とともに政治を動かしていきました。
【PR】スポンサーリンク成宗の王妃と側室たち|王宮を揺るがす愛憎劇
多くの家族に囲まれた成宗の家庭は一見華やかに見えますが、その内実は波乱に満ちていました。
以下、代表的な王妃・側室をご紹介します。
正室の恭恵王后|最初の王妃
恭恵王后は、世祖の功臣・韓明澮の娘で姉は第8代国王・睿宗の王妃・章順王后です。
彼女は心優しく、おとなしい王妃でしたが、残念ながら子宝に恵まれずに18歳の若さで亡くなっています。
詳しくはこちら>>恭恵王后の家系図【朝鮮史上前例のない姉妹で王妃の家系】をご覧ください。
継室・廃妃尹氏|燕山君の母親
廃妃尹氏は暴君・燕山君の母。度を越した嫉妬深い性格から、最終的には成宗自らが廃妃を決断。彼女は王宮を追われ、後に毒殺されるという壮絶な末路を迎えています。
詳しくはこちら>>廃妃尹氏の家系図【燕山君の母は生前に廃妃になった最初の王妃】をご覧ください。
継室・貞顕王后|中宗の母親
貞顕王后は第11代王・中宗を生んだ3番めの正室です。燕山君には母親として接していましたが、彼が母親の粛清を始めたときは、危うく殺害されるところでした。
1506年のクーデターで燕山君が廃位すると、大妃として中宗を王に任命しています。
詳しくはこちら>>貞顕王后の家系図【中宗の実母は心優しい誰からも愛された王妃】をご覧ください。
燕山君に殺害された側室
貴人鄭氏と貴人嚴氏の二人の側室は、燕山君の母・廃妃尹氏の廃位に加担していました。
燕山君はそのことを知ると、1504年3月20日の深夜、貴人鄭氏と貴人嚴氏を無惨な方法で虐殺してしまいます。
成宗の子ども|燕山君と中宗という対照的な王
成宗の次の息子二人は歴史的にも非常に重要な存在です。
燕山君(ヨンサングン)
廃妃尹氏の息子で、母の悲劇を知ると朝鮮最大の粛清を始めた暴君として知られています。
中宗(チュンジョン)
貞顕王后の息子で、燕山君を廃位した中宗反正で即位。優柔不断な王として知られています。
対照的な性格の王ですが、どちらも、その波乱万丈の生涯からドラマによく登場します。
成宗の生涯
成宗の生涯を一覧で整理しています。
年 | 出来事 |
1457 | 7月30日、懿敬世子と世子嬪(後の仁粋大妃)の間に生まれる |
9月2日、父の懿敬世子が病死 | |
1461 | 5歳で者山君に封ぜられる |
1467 | 1月12日、韓明澮の次女(後の恭恵王后)と結婚 |
1469 | 12月31日、第8代王・睿宗が逝去。第9代国王として即位 |
1474 | 4月15日、王妃の恭恵王后が亡くなる |
1476 | 8月9日、側室だった廃妃尹氏を王妃とする |
11月7日、廃妃尹氏が燕山君を生む | |
1479 | 廃妃尹氏を廃位する |
1482 | 8月16日、廃妃尹氏を賜死させる |
1494 | 12月24日、成宗が亡くなる。享年38歳 |
成宗の政治的功績
女性関係が注目されがちな成宗ですが、政治面でも多くの功績を残しています。
当初は大妃や重臣に権力を握られていた成宗ですが、1476年に親政を開始すると、大胆な政治改革を断行しました。
院相制度の廃止と政治基盤の強化
成宗は元老大臣が国政の重要な決定に参加する院相制度を廃止して、王の決裁権を取り戻しました。
そして、才能ある人材を登用して、金宗直(クム・ジョンジク)一派の若い士林勢力による政治的基盤を作りました。
儒教的統治の強化
成宗は儒学を重んじ、学者の意見を積極的に取り入れました。科挙制度を整備し、公正な官僚登用を採用しました。
経済大典の公布
太祖の時代から始まった法の整備は、1485年、遂に最終版となる「経済大典(朝鮮の基本法典)」が頒布されました。
成宗による「経済大典」の頒布は、儒教的理念を土台にした統治制度の完成を意味し、以後500年続く朝鮮社会の枠組みを形づくった国家法典といえます。
文化振興の促進
世宗と世祖が成した政治的功績を土台に文化政策を拡大しました。特に、国家による書物の出版を盛んに行い、知識層の育成に力を注ぎました。
成宗の時代は朝鮮王朝で最も平和で安定した時代と言われています。
まとめ
成宗の時代は世宗と世祖が成した政治的功績のため、最も安定した平和な時代と言われています。
しかし、女性問題では大きな遺恨を残し、次期王・燕山君の暴挙の火種を作りました。
暗君とも名君とも言われる成宗ですが、「家庭は波乱、政治は安定」 この対照的な二面性こそ、成宗の人物像を表しているのかもしれません。
補足:成宗の正室、側室とその子供たち
成宗には分かっているだけでも3人の正室と11人の側室がいました。
称号 | 子供 | 名前 | 備考 | |
正室 | 恭恵王后 | なし | 韓明澮の娘 | |
廃妃尹氏 (斉献王后) |
2男 | 李㦕 | 第10代王・燕山君7 | |
王子 | 早世 | |||
貞顕王后 | 1男2女 | 不詳 | 順淑公主 | |
不詳 | 慎淑公主 | |||
李懌 | 第11代王・中宗 | |||
側室 | 明嬪金氏 | 1男3女 | 李悰 | 茂山君 |
不詳 | 徽淑翁主 | |||
不詳 | 敬淑翁主 | |||
不詳 | 徽静翁主 | |||
貴人鄭氏 | 2男1女 | 李㤚 | 安陽君 | |
李㦀 | 鳳安君 | |||
不詳 | 静恵翁主 | |||
貴人嚴氏 | 1女 | 不詳 | 恭慎翁主 | |
貴人権氏 | 1男 | 李忭 | 全城君 | |
貴人南氏 | なし | |||
昭儀李氏 | なし | |||
淑儀河氏 | 1男 | 李恂 | 桂城君 | |
淑儀洪氏 | 7男3女 | 不詳 | 恵淑翁主 | |
李 | 完原君 | |||
李恬 | 檜山君 | |||
李惇 | 甄城君 | |||
不詳 | 静順翁主 | |||
李懐 | 益陽君 | |||
李忱 | 景明君 | |||
李 | 雲川君 | |||
李憘 | 楊原君 | |||
不詳 | 静淑翁主 | |||
淑儀金氏 | 3女 | 不詳 | 徽淑翁主 | |
不詳 | 敬淑翁主 | |||
不詳 | 徽静翁主 | |||
淑容沈氏 | 2男2女 | 李慣 | 利城君 | |
李恮 | 寧山君 | |||
不詳 | 慶順翁主 | |||
不詳 | 淑恵翁主 | |||
淑容権氏 | 1女 | 不詳 | 慶徽翁主 | |
生母不明 | 1男 | 孝信 |