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成宗の家系図【嫉妬深い王妃に振り回された好色家の王】

ときには名君と称される成宗です。

成宗とはどんな王だったのか?

成宗の家系図から詳しくご紹介します。

 

成宗の家系図

成宗は第7代王・世祖の孫に当たります。

父親の懿敬世子は13歳で結婚して成宗をもうけましが、20歳で病死しています。

成宗の母親は韓確の娘で後の仁粋大妃です。

<成宗の家系図>

 

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成宗はどんな王だったのか?

成宗は小さい頃から聡明で、射芸、書画に優れていたので祖父の世祖に大変可愛がられました。

父は病弱で、成宗が生まれるとすぐに亡くなってしまいました。

成宗も父親に似たのか、体は強い方ではありませんでした。

 

成宗のプロフィール

成宗(ソンジョン):第9代国王
生年:1457年7月30日
没年:1495年12月24日
享年:39歳
在位:1469年11月28日-1495年12月24日
諱:李娎(イ・ヒョル)
桃源君
諡号:康靖仁文憲武欽聖恭孝大王
廟号:成宗
父:懿敬世子(次男)
母:昭恵王后韓氏/仁粋大妃
陵墓:宣陵

 

成宗が王に選ばれてた理由

第8代王・睿宗(イェジョン)が亡くなると、その日の内に貞熹王后は成宗を次期王としました。

朝鮮王朝の歴史において、王が亡くなった日に後継者を就けるのは異例のことでした。

貞熹王后が異例の速さで王を決定したことには理由がありました。

 

次期王の候補としては、先王睿宗の息子・斉安君、世祖の長男の長男・月山君(成宗の兄)がいました。

しかし、貞熹王后は斉安君はまだ幼いこと、月山君は病弱であることを理由に拒否しています。

 

貞熹王后は当時の最高権力者である韓明澮と結託したのです。

成宗(乽山君)の妻は韓明澮の娘(恭恵王后)でした。

 

貞熹王后は最高権力者と手を結び、大臣たちを黙らせ、王権の安定を図ったのです。

また、貞熹王后は自ら垂簾聴政で王権を操ることができました。

 

成宗の兄弟姉妹

成宗には一人の兄と一人の姉がいました。

兄の月山大君は後継者選びのときに病弱という理由で外されます。

しかし、決して恨むことなく、兄弟関係は良かったといいます。

<成宗の兄弟>
長男:月山大君(1454-1488)
次男:成宗(1457-1495)
長女:明淑公主(1455-1482)洪常の妻

 

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成宗の家族

成宗には分かっているだけでも3人の正室と11人の側室がいました。

称号 子供 名前 備考
正室 恭恵王后 なし 韓明澮の娘
廃妃尹氏
(斉献王后)
2男 李㦕 第10代王・燕山君7
王子 早世
貞顕王后 1男2女 不詳 順淑公主
不詳 慎淑公主
李懌 第11代王・中宗
側室 明嬪金氏 1男3女 李悰 茂山君
不詳 徽淑翁主
不詳 敬淑翁主
不詳 徽静翁主
貴人鄭氏 2男1女 李㤚 安陽君
李㦀 鳳安君
不詳 静恵翁主
貴人嚴氏 1女 不詳 恭慎翁主
貴人権氏 1男 李忭 全城君
貴人南氏 なし
昭儀李氏 なし
淑儀河氏 1男 李恂 桂城君
淑儀洪氏 7男3女 不詳 恵淑翁主
完原君
李恬 檜山君
李惇 甄城君
不詳 静順翁主
李懐 益陽君
李忱 景明君
雲川君
李憘 楊原君
不詳 静淑翁主
淑儀金氏 3女 不詳 徽淑翁主
不詳 敬淑翁主
不詳 徽静翁主
淑容沈氏 2男2女 李慣 利城君
李恮 寧山君
不詳 慶順翁主
不詳 淑恵翁主
淑容権氏 1女 不詳 慶徽翁主
生母不明 1男 孝信

 

正室の恭恵王后

恭恵王后は12歳で李娎(成宗)と結婚しました。

世祖の功臣・韓明澮の娘で、姉は第8代国王・睿宗の王妃・章順王后です。

恭恵王后は心優しく、おとなしい王妃でした。

 

自分に子供ができませんでしたが、側室に対しても嫌な顔ひとつ見せなかったといいます。

残念ながら18歳の若さで亡くなっています。

恭恵王后について詳しくは>>恭恵王后の家系図【朝鮮史上前例のない姉妹で王妃の家系】をご覧ください。

 

側室・廃妃尹氏は燕山君の母親

廃妃尹氏は暴君・燕山君の母で、2番めの正室です。

成宗は美しくて、慎ましかった廃妃尹氏が気に入り側室にしました。

 

しかし、廃妃尹氏の本来の性格は気性が荒く、大変嫉妬深い性格でした。

そのため、燕山君が生まれ成宗の気持ちが側室の方に移ると、次第に仮面が剥がれていきました。

成宗が寵愛する側室への嫌がらせは常軌を逸していました。

 

義理の母にも反抗的な態度を見せ、とうとう成宗の顔を爪で引っ掻くという不敬を犯して廃位され宮廷から追放されました。

宮廷外で謹慎していましたが、恨みを抱くものの謀略で最後は賜死を命じられました。

廃妃尹氏について詳しくは>>廃妃尹氏の家系図【燕山君の母は生前に廃妃になった最初の王妃】をご覧ください。

 

側室・貞顕王后は中宗の母親

貞顕王后は第11代王・中宗を生んだ3番めの正室です。

廃妃尹氏が亡くなってからは、燕山君には母親として接していました。

 

燕山君が実の母親の粛清を始めたときは、危うく殺害されるところでした。

1506年にクーデターが起こり、燕山君が廃位させられると、大妃として中宗を王に任命しています。

 

燕山君に殺害された側室

貴人鄭氏と貴人嚴氏の二人の側室は、燕山君の母・廃妃尹氏の廃位に加担していました。

廃妃尹氏が嫉妬し、執拗な嫌がらせを繰り返していたからです。

 

燕山君が母親が亡くなった経緯を知ると、残虐な処罰を始めました。

1504年3月20日の深夜、貴人鄭氏と貴人嚴氏は無惨な方法で虐殺されてしまいました。

 

成宗の生涯

成宗の生涯についてご説明します。

成宗の誕生から結婚

成宗は1457年7月30日に懿敬世子と世子嬪(後の仁粋大妃)の間に生まれました。

父の懿敬世子は成宗が生まれるとすぐの9月2日に病死しています。

成宗は1461年に5歳で者山君に封ぜられました。(1468年に者乙山君に改封)

1467年1月12日、韓明澮の次女(後の恭恵王后)と結婚します。

 

第9代王に即位

1468年9月7日、世祖が海陽大君に譲位すると、翌日亡くなってしまいます。

海陽大君は第8代王・睿宗に即位しましたが、1469年12月31日、在位1年2ヶ月で亡くなってしまいました。

祖母の慈聖大妃はその日に成宗を第9代国王として即位させました。

 

睿宗の息子が4歳と幼く、成宗の兄の月山大君が病弱だったとの理由ですが、慈聖大妃が裏で韓明澮と結託して決定したと言われています。

成宗の妻が韓明澮の娘だったのです。

当時、韓明澮は領議政で朝廷での最大権力者でした。

 

廃妃尹氏に振り回される

1474年4月15日、王妃の恭恵王后が亡くなりました。

1476年8月9日、成宗は側室として美しく慎ましかった廃妃尹氏を仁粋大妃や周囲の反対を押し切って王妃にします。

 

そのときすでに、廃妃尹氏は身ごもっていました。

同年11月7日、後の王・燕山君が生まれます。

 

燕山君が生まれて、成宗の足が遠のき始めると、廃妃尹氏の気性の荒さが目立ち始めます。

寵愛される側室に執拗ないじめをしたり、義理の母に反抗するようになります。

 

1479年、成宗の顔を引っ掻く不敬が決定打となり、成宗は廃妃尹氏を廃位します。
廃妃尹氏は宮廷の外に追い出されました。

1482年、廃妃尹氏の様子を調べさせた成宗に報告者が偽りの報告をします。
仁粋大妃が命じたことでした。

1482年8月16日、廃妃尹氏は成宗より賜死を命じられます。

 

成宗の業績

1476年に成宗が親政を開始しました。

成宗は元老大臣が国政の重要な決定に参加する院相制度を廃止、王の決裁権を取り戻しました。

そして、1487年、才能ある人材を登用、金宗直(クム・ジョンジク)一派の若い士林勢力による政治的基盤を作りました。

 

また、世宗と世祖が成した政治的功績を土台に文化政策を拡大しました。

1474年には「経済大典(朝鮮の基本法典)」を完成させ、更に1492年には、「経済大典」を補完した「大典続録」を刊行しています。

 

世宗の時代は朝鮮王朝で最も平和で安定した時代と言われています。

1494年12月24日、成宗は享年38歳で亡くなりました。

 

まとめ

成宗の時代は世宗と世祖が成した政治的功績のため、最も安定した平和な時代と言われています。

しかし、女性問題では大きな遺恨を残し、次期王・燕山君の暴挙の火種を作りました。

成宗を名君と称することもあるようですが、後の範になるような王という点では疑問が残る王です。

 

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