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朝鮮王朝のダメ王ランキング【不甲斐く、残念なダメ王は誰?】

朝鮮王朝歴代王27人の中でダメ王は誰なのか?

残念なダメ王をランキングしました。

 

朝鮮王朝のダメ王ランキング

ダメ王ランキングのNo1は「無能な王」として有名な第16代王の仁祖です。

王としての「資質」「主体性」「行動」などで評価しました。

<ダメ王ランキング>
1位:第16代王・仁祖
2位:第25代王・哲宗
3位:第26代王・高宗
4位:第14代王・宣祖
5位:第11代王・中宗

 

ランキングの根拠

ランキングの根拠は次の基準でダメ度を評価した結果です。

<評価基準>
・王の資質に欠ける
・民を捨てる
・臣下や側室などの言いなり
・後世に負担を残す

 

<評価結果>

資質に欠ける 民を捨てる 言いなり 後世に負担 ダメ度
仁祖 60
哲宗 40
高宗 40
宣祖 30
中宗 20

●:ダメ度20、▲:ダメ度10、ー:ダメ度0

数値が高いほど、ダメ度が高いことを示します。

哲宗と高宗は同じダメ度ですが、根本的な問題である王の資質に欠ける哲宗をダメ度が上と判断しました。

 

評価基準の説明

評価基準の内容を説明します。

王の資質に欠ける

王の資質とは、例えば、読み書きできるのは当然として、一般的な教養、知識があることなど、王としての最低限の資質を示しています。

通常は幼少の頃から、師匠が付いて教育されるものです。

「王の器」以前の問題です。

 

民を捨てる

王は民の平和と安定のために存在します。

この責務を放棄していないか判断しています。

民に負担を負わせること、特に、民を置いて逃亡するなど王として絶対にしてはいけないことです。

 

臣下や側室などの言いなり

主体性がなく、臣下や側室の言いなりになることで、王としての存在価値がありません。

王を振り回す存在としては外戚や列強国なども存在します。

 

後世に負担を残す

後世の負担とは、定期的に送る多額の貢物や貢女の約束、戦争によって荒れ果てた土地、外敵による占領や支配などを示します。

後世に残した負担の大きさ、期間の長さで判断しました。

 

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第16代王・仁祖(1位)

仁祖は清の侵略に対して何度も民を捨てて逃亡、最後は清の皇帝に屈辱の土下座をさせられました。

 

多額の貢物の負担

以降、朝鮮は清の臣下になりさがり、王子を清に人質として送ることが慣習となりました。

毎年、多額の貢物を要求され、朝鮮に大きな負担を負わせた王です。

清の要求は、降伏直後に清が仁祖に下した詔諭(韓国国立図書館に保存)に記載されています。

 

臣下や側室の言いなり

仁祖は光海君を廃位にしたクーデター(仁祖反正)によって、祭り上げられた王なので、自立した志を持つことができず、臣下や側室に踊らされました。

特に、悪女で知られる側室・貴人趙氏が図った悪事は数え切れません。

 

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第25代王・哲宗(2位)

哲宗は字もまともに書けない担ぎ上げられた王で、生涯、操り人形として生き、晩年は遊興にふけるようになったと言われています。

 

王としての資質に欠ける

哲宗は一族の多くが死罪となり、江華島で静かに農業を営んでいました。

王としての教育を受けることはなく育ったため、王としての資質に欠けていたことはある意味当然だったといえます。

 

祭り上げられた王

1849年、憲宗が跡継ぎがいないまま死去すると、純祖の王妃・純元王后は江華島にいた元範(哲宗)を王位に就けることを考えます。

哲宗を純祖と自分の養子とした上で、王として即位させました。

哲宗は字もまともに書けませんでしたが、操り人形が欲しい純元王后とって、哲宗は適任者だったのかもしれません。

 

第26代王・高宗(3位)

高宗は即位時の幼いときには、父親の興宣大院君に政治の実権を握られ、成人して親政を取る頃には気の強い妻の明成皇后に実権を握られました。

 

父と妻に実権を握られる

高宗が即位したときは、まだ12歳、海千山千の父・興宣大院君に従うしかありませんでした。

1873年、高宗がようやく親政を取り始めましたが、高宗の思うようにはなりませんでした。

 

それまで力を蓄えていた明成皇后が興宣大院君を追放、明成皇后の一族が政権を掌握しました。

頭がよく、気の強い妻に高宗は頭が上がらず、王らしいことをすることもなく、閔氏一族による勢道政治が続きました。

 

列強国に翻弄される

明成皇后が殺害され、興宣大院君も亡くなると、高宗は専制君主国家への動きを見せます。

しかし、ロシア、日本、アメリカなどの列強国に対してはなすすべがありませんでした。

最後まで王としての権威を見せることなく、高宗は王座を手放すことになります。

 

後世への大きな負担

高宗の譲位後、朝鮮王朝は坂道を転げ落ちるように終焉に向かっていきました。

その後、国は日本の植民地となり、高宗は国の後世にこれ以上無い大きな負担を残すことになります。

 

第14代王・宣祖(4位)

宣祖は庶子(側室の子供)の傍系から王になった最初の人物です。

そのため、「正当な後継者ではない」というコンプレックスが、民を捨てるような「王としての自覚の欠如」につながったのかもしれません。

 

都を捨てて逃避

朝鮮は建国から200年の間、外部からの侵略が無かったことが裏目になり、倭の秀吉軍の侵略になすすべがありませんでした。

1592年の壬辰倭乱です。

 

秀吉軍の侵攻は凄まじく、釜山浦、忠州、そして、都の漢陽をも簡単に陥落させてしまいました。

慌てた宣祖は都を捨て、民衆から罵声と石を投げつけられるなか、平壌から義州へと逃避行を続けました。

 

民の被害と国土の荒廃

秀吉軍の侵略は1598年、秀吉が亡くなるまで続きます。

宣祖が民を捨て逃げ出したことで、多くの民が殺害され、国土は酷く荒廃しました。

 

第11代王・中宗(5位)

中宗は朝鮮王朝で初めてクーデターにより王位に就くことができた王でした。

従って、中宗は臣下に逆らうことができませんでした。

 

臣下の言いなり

愛する端敬王后を七日で廃位したことは苦渋の決断でしたが、政権運用に信念がなく、目立った功績も上げることができませんでした。

まさに、臣下の言いなりだったのです。

 

優柔不断な王

その結果、歴史の評価は「中宗は決断力に欠け、政局を混乱させた優柔不断の王」と評価されています。

史実の中宗は、ドラマ「チャングム」に登場する主体性のある王とは程遠いイメージだったのです。

まとめ

ダメ王に共通するのは、自身の安全を優先し、主体性に欠け、短期的な決断で後世に負担を残すことです。

しかし、自らダメ王となりたかった王はいません。

王は常に、後世にどう記録されるかを気にかけていたからです。

 

ダメ王の多くは、即位の経緯から自身の立場が非常に弱かったり、外部から侵攻されたりと、自分の力ではどうにもならない環境だったことも事実です。

従って、平和な時代であれば、功績を残し、民から尊敬された王だったかもしれません。

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