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孝宗の家系図【清の討伐に人生をかけた不遇の国王】

孝宗は兄とともに清に人質として囚われましたが、兄・昭顕世子とは異なる道を歩んだ王でした。

彼の波乱の人生を家系図とともに紐解きます。

孝宗の家系図|王位継承の背景

孝宗は第16代国王・仁祖の次男で昭顕世子の弟でした。妃は右議政・張維の娘の仁宣王后(德水張氏)です。

昭顕世子が亡くなったとき、世子の息子・慶善君が王位を継ぐべきでしたが、仁祖は独断で孝宗を世子に任命しました。

孝宗の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<孝宗の家系図>

この王命は世論の反発を招き、孝宗は生涯、王位継承の正統性に対するコンプレックスに苦しむことになります

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孝宗はどんな王だったのか?

孝宗は大変な兄思いで清の人質時代には、兄・昭顕世子の代わりに戦場に行くことを志願しました。また、兄が戦場に行くときには常に同行したといいます。

しかし、昭顕世子が清の文化、学問、経済に心酔していくのとは逆に、清に対する反抗心を強めていきました。

<プロフィール>
第17代国王
生年:1619年5月22日
没年:1659年5月4日
在位:1649年6月17日-1659年6月23日
諱:淏(ホ)
廟号:孝宗
父:仁祖
母:仁烈王后
王后:仁宣王后張氏
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孝宗の家族

孝宗は多くの娘に恵まれた愛妻家で、残っている手紙や記録から家庭では大変優しい父親だったようです。

多くの公主たちは名家に嫁ぎましたが、実は、娘を大切にしていた孝宗は実の娘を清に出すことを拒み、その代わりに義順公主(李愷胤の娘)を養女とし、清の権力者ドルゴンと政略結婚させています。

正/側 称号 子供 備考
正室 仁宣王后 3男8女 淑慎公主 瀋陽で病死
淑安公主 洪得箕の妻
大君 早世
淑明公主 沈之源の妻
顕宗 第18代王
淑徽公主 鄭斎賢の妻
公主 早世
大君 早世
淑静公主 鄭載崙の妻
淑敬公主 元夢麟の妻
義順公主 養女、清国ドルゴンの妃
側室 安嬪李氏 1女 淑寧翁主 朴弼成の妻
淑儀金氏 子女なし
淑儀鄭氏 子女なし

清への人質、そして兄・昭顕世子の死

1637年の丙子の乱で朝鮮は清に降伏し、孝宗(鳳林大君)と兄・昭顕世子が人質となりました。

兄は清に協調的でしたが、孝宗は敵対心を強め、清の内情や昭顕世子の行いを朝鮮へ伝えていたとされます。

1645年、帰国直後、昭顕世子が謎の死を遂げたことで、孝宗の人生は大きく転機を迎えます。毒殺とも言われる昭顕世子の死についてはこちら>>昭顕世子の家系図【不可解な死因の悲劇の世子】

鳳林大君、世子に任命される

本来ならば昭顕世子の子・慶善君が世孫となるはずでしたが、仁祖はそれを覆し鳳林大君を世子に指名します。

重臣たちは昭顕世子の息子を世孫にすることを主張しましたが、仁祖は清に心酔する昭顕世子を嫌ったといいます。仁祖の清への敵意を色濃く反映した出来事でした。

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第17代国王・孝宗|親清勢力の一掃と軍備拡張

1649年、仁祖が亡くなり、鳳林大君が孝宗として即位しました。孝宗は即位するとすぐに宋時烈ら北伐派の論客を採用し、親清派の中心人物・金自點を流刑にしました。

1651年、金自點は謀反を企てたとして処刑され、親清勢力は一掃。貴人趙氏も処罰されています。彼は清討伐のために、騎兵の増強、漢陽の防御力強化など北伐体制を整えていきました。

ロシア征伐|皮肉な展開

北伐のために準備された朝鮮軍は、1654年と1658年の2回、清とロシアの戦いに参加し、ロシア撃退に貢献しています。

清の要請で動員された軍隊は見事な戦果を上げたものの、多くの犠牲を出す結果となりました。孝宗の悲願である北伐は、皮肉にも清の勝利を助ける形で終わります。

孝宗の最期|北伐の終焉

孝宗は顔に出来たでき物を針で膿を出す治療中に、誤って針が動脈に刺ささり、出血が止まらなくなりました。これが致命傷となり、1659年5月、孝宗は北伐を成し遂げることなく、41歳で亡くなっています。

志半ばにして終わった彼の生涯は、父・仁祖の遺恨を継ぎ、清の討伐に人生を賭けたものでした。

まとめ

孝宗は清を恨む父・仁祖の選択によって王位に就きました。

彼は、清への恨みを胸に北伐を志し、強い政治力と軍備強化を推し進めたものの、その力は清のロシア撃退に使われてしまいます。

結局、北伐を成し遂げることなく41歳で亡くなりました。彼は、朝鮮王朝中期の苦悩の時代を生き、抵抗できない「時代の波」に翻弄された不遇の王といえます。

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