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孝宗の家系図【北伐(清の討伐)に生涯をかけた不遇の国王】

孝宗は兄の昭顕世子とともに8年間、清で人質生活を送っています。

昭顕世子と真逆の道を辿った孝宗は、どんな王だったのか。

家系図から調べてみました。

 

孝宗の家系図

孝宗は第16代国王・仁祖の次男で昭顕世子の弟でした。

妃は德水張氏一族で当時、右議政を努めていた張維の娘です。

 

昭顕世子が亡くなったときには、世子の息子が世孫となり王位を継ぐのが慣例でした。

しかし、仁祖は独断で、清に恨みが強く自分の考えに近い孝宗を世子に選びました。

<孝宗の家系図>

当時、昭顯世子の長男・慶善君が健全であったにも関わらず、仁祖によって孝宗を世子に冊封したことに対する世論の非難は強かったといいます。

このため、孝宗は生涯、自分の即位の正当性に対するコンプレックスに苦しむことになります。

 

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孝宗はどんな王だったのか?

孝宗は大変な兄思いで清の人質時代には、兄・昭顕世子の代わりに戦場に行くことを志願しました。

また、兄が戦場に行くときには常に同行したといいます。

 

しかし、昭顕世子が清の文化、学問、経済に心酔していくのとは逆に、清に対する反抗心を強めていきました。

 

孝宗のプロフィール

孝宗は即位前は、鳳林大君(ポンリムテグン)と呼ばれていました。

多くのドラマでも鳳林大君として登場しています。

<プロフィール>
第17代国王
生年:1619年5月22日
没年:1659年5月4日
在位:1649年6月17日-1659年6月23日
諱:淏(ホ)
廟号:孝宗
父:仁祖
母:仁烈王后
王后:仁宣王后張氏

 

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孝宗の家族

孝宗は多くの娘に恵まれた愛妻家で、残っている手紙や記録から家庭では大変優しい父親だったようです。

正/側 称号 子供 備考
正室 仁宣王后 3男8女 淑慎公主 瀋陽で病死
淑安公主 洪得箕の妻
大君 早世
淑明公主 沈之源の妻
顕宗 第18代王
淑徽公主 鄭斎賢の妻
公主 早世
大君 早世
淑静公主 鄭載崙の妻
淑敬公主 元夢麟の妻
義順公主 養女、清国ドルゴンの妃
側室 安嬪李氏 1女 淑寧翁主 朴弼成の妻
淑儀金氏 子女なし
淑儀鄭氏 子女なし

 

孝宗の生涯

王座から遠かった孝宗の人生は、クーデターにより一変しました。

 

一夜にして王子に

1619年5月22日、 綾陽君(後の仁祖)の次男として生まれました。

孝宗は当初、王座とは遠い存在でした。

 

しかし、1623年に仁祖反正で光海君が廃位され、父親が第16代国王・仁祖として即位すると状況は一変しました。

一夜にして王子となったのです。

 

1626年、8歳で鳳林大君に封じられました。

1631年には、13歳で当時の右議政である張維(チャン・ユ)の娘と結婚しています。

 

丙子の乱

君臣の関係を結ぶように迫った清に対して、仁祖は拒絶、逆に宣戦布告をしました。

1636年12月、ホンタイジが10万の兵を率いて、朝鮮に侵攻しました。

丙子の乱(へいしのらん)です。

 

鳳林大君は妃嬪や王族、両班たちを率いて江華島に避難しました。

仁祖も江華島へ逃れようとしましたが、清軍に道をふさがれ、南漢山城に逃げ込みます。

しかし、清軍に包囲され、1637年1月30日、遂に、仁祖は降伏しました。

<豆知識>丙子の乱と丙子胡乱の違い
呼び方の違いで、同じ乱を示しています。韓国では「朝鮮王朝実録」でも敵対感を込めて丙子胡乱(ピョンジャホラン)が使用されています。胡の文字は、昔から漢族が北部や西部の異民族への蔑称として使用されてきた文字でした。胡乱は北西部の蛮族(女真)が起こした乱を蔑称を込めて表現しています。

 

清に人質になる

降伏の条件として、兄の昭顕世子、鳳林大君、弟の麟坪大君が清に人質となりました。

翌年、幼い三男の麟坪大君は解放されました。

 

しかし、昭顕世子と鳳林大君は8年間、清で人質生活を送ることになりました。

昭顕世子が清の文化や科学を吸収し、清との親交を深めようと努力しました。

 

一方、鳳林大君は清とは距離を置き、清の内情や昭顕世子の行いを朝鮮へ密告していました。

もともと、鳳林大君は清に対して嫌悪感を持っていましたが、人質になってからは明を攻撃する戦闘に駆り出されたり、清の官僚に侮辱されるなど、より清への敵対心を強くしていきました。

 

兄・昭顕世子の突然の死

1645年、清が明を倒したことで、昭顕世子と愍懐嬪が人質から解放されました。

朝鮮が明を支援する恐れがなくなったからです。

帰国から2ヶ月後の4月、昭顕世子が突然、謎の死を遂げます。

 

清に心酔し、清からも信頼されている昭顕世子に、仁祖が危険に感じて毒殺したとも言われています。

土下座までさせられた清を仁祖は心底憎んでいたからです。

しかし、その真相は不明のままです。

詳しくは>>昭顕世子(ソヒョンセジャ)の家系図【不可解な死因の悲劇の世子】

 

降って湧いた世子の座

昭顕世子が亡くなったことを聞いた鳳林大君は急遽、清から帰国しました。

本来の慣例から、世子が亡くなれば、世子の息子を世孫としますが、仁祖は弟の鳳林大君を世子に指名しました。

昭顕世子が亡くなってから、4ヶ月後の6月に鳳林大君は世子となりました。

 

重臣たちは昭顕世子の息子を世孫にすることを主張しましたが、仁祖が強引に進めたといいます。

仁祖の昭顕世子に対する許せない気持ちが露骨に表れた出来事でした。

 

第17代国王・孝宗

1649年、仁祖が亡くなり、鳳林大君が孝宗として即位しました。

孝宗は直ぐに周囲を味方で固めます。

 

まずは、守役だった(ソン・シヨル)と宋浚吉(ソン・ジュンギル)を臣下としました。

宋時烈は清に対抗すべく北伐論を唱える急先鋒でした。

また、金集(キム・ジプ)、金尙憲(キム・サンホン)、安邦俊など、清に復讐を考える重臣を取り立てます。

 

1650年、親清派の勢力の中心人物の金自点(キム ジャジョム)を罷免、北伐(清との戦い)のために軍隊を強化していきます。

金自点は仁祖反正の功臣で、仁祖を後ろ盾に権力を振るっていた人物でした。

仁祖の側室の貴人趙氏と結託して、昭顕世子を誹謗中傷、父子の仲を引き裂くなど謀略を巡らしていました。

 

親清派の勢力の一掃と軍備の拡大

流配された金自点は流刑地で「孝宗が清を軍事攻撃をしようとしている」と敵国の清に虚偽の密告していました。

1651年、金自点が息子と謀反を計画しましたが、事前に発覚します。

金自点と息子は死罪になり、金自点の一派は追放されました。

これにより、親清勢力は全て排除されます。

 

また、金自点と結託していた貴人趙氏も賜死を命じられます。

1652年、孝宗は本格的に軍隊を拡大、騎兵隊を増やし、漢陽の防御力を高めています。

 

ロシア征伐

ロシアとの戦闘で苦戦していた清は朝鮮に軍事支援を依頼してきました。

朝鮮の軍隊は1654年と1658年の2回、清とロシアの戦いに参加し、ロシアの撃退に貢献しています。

 

北伐のための軍隊が清がロシアと戦うための支援部隊として利用されたのです。

朝鮮の軍隊は優秀であることを示す一方で、大きな被害を受けることになりました。

一方、清の国力は増々強まっていきました。

 

孝宗の最後

孝宗は顔に出来たでき物を針で膿を出す治療を試みたが、誤って針が動脈に刺ささり、出血が止まらなくなりました。

これが致命傷となり、1659年5月、孝宗は北伐を成し遂げることなく、41歳で亡くなっています。

 

孝宗が出るドラマ

孝宗はそれほど多くのドラマにでていません。

チュノ~推奴~(2010年、イ・イン)
馬医(2012年、チェドクムン)
宮廷残酷史-花たちの戦い(2013年、キム・ジュヨン)
華政(2015年、イ・ミンホ)

 

まとめ

孝宗は、父親の仁祖が清に降伏したことで、8年間もの間、清で人質生活を送りました。

清から解放されると、兄・昭顕世子の謎の死により、世子となりました。

国王となった孝宗は生涯、北伐を目指して軍備の拡張を図ります。

 

しかし、目的を果たすことなく、逆に清のロシア征伐を支援する羽目になります。

孝宗は北伐を成し遂げることなく、41歳で亡くなりました。

 

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