Googleのアドセンス広告を表示しています

禑王の生涯【出生を政治に利用された高麗王を史実で検証】

禑王は恭愍王の息子として生まれ、高麗第32代王を継承しました。しかし、その出生は政治的な策略に利用され、廃位の上、処刑されています。

この記事では、禑王の生涯を「高麗史」「太宗実録」などの史料に基づいて詳しく解説します。

禑王の生涯|禑王の誕生

僧・辛旽(シンドン)は継承者がいなかった恭愍王に、自分の侍婢だった般若(パニャ)を紹介します。1365年7月、恭愍王と般若の間に王禑が誕生しました。

王禑は1371年、7歳で宮廷に入ると、宮人韓氏が養母となり王宮で育てられます。1373年には、禑(ウ)の名前を与えられました。

【PR】スポンサーリンク

幼王の即位と摂政政治

1374年、恭愍王が親元派に殺害されると、禑王は李仁任の推挙により第32代高麗王として即位しました。しかし当時10歳と幼少であったため、恭愍王の母・明徳太后が摂政として政務を担います。

1376年、養母の宮人韓氏が亡くなると順静王后として追尊され、生母と称されました。これに反発した実母・般若は自ら名乗り出ますが、その行動が罪に問われ、李仁任によって処刑されました。

【PR】スポンサーリンク

明徳皇后の死と王権の弱体化

1380年1月、王室を支えてきた祖母・明徳皇后が亡くなると、摂政の地位は李仁任に移りました。李仁任は慶復興(キョン・ボクフン)に罪を着せ、流刑として政界から排除します。

慶復興は王室の外戚であり、朝廷最高官職である門下侍中として大きな権力を持っていました。この結果、王室は政治への影響力を失い、李仁任による独裁的な政権運営が進められることになりました。

王昌の誕生と李仁任の専横

1379年4月、禑王は李琳の娘(謹妃李氏)と結婚し、翌1380年8月には待望の王子・王昌(後の昌王)が誕生しています。1383年に親政を宣言したものの、独自の軍事基盤を持たない王権は依然として不安定でした。

禑王は次第に李仁任へ依存を強め、1384年にはその邸宅をたびたび訪れた記録が残っています。こうして権勢を拡大した李仁任一派は私利私欲に走り、専横は次第に深刻化していきます。

李仁任一派の失脚

1388年1月、いわゆる戊辰被禍(ムジンピファ)が発生しました。これは李仁任の側近・廉興邦の家奴(使用人)である李光が趙胖の土地を強奪した出来事を機に、崔瑩李成桂が李仁任一派を一斉に粛清した事件です。

林堅味・廉興邦らは処刑、李仁任は流刑となりました。この事件を境に、摂政として権勢を振るった李仁任は失脚し、代わって崔瑩と李成桂が政治の表舞台に登場することになります。

定妃安氏への強い思いと宮中の噂

1387年頃、「高麗史」には禑王が定妃安氏(父・恭愍王の妃)のもとへ頻繁に通っていた記録が残っています。当時、禑王は22歳、定妃安氏は35歳でした。

禑如高懽家, 遂如定妃殿. 暮又如定妃殿, 禑數至妃殿, 頗有醜聲.
<引用元:高麗史 列傳第四十九 辛禑四 1387年11月>

<訳>禑王は高懽の家に立ち寄った後、定妃殿に行き、夕方にもまた定妃殿に行った。王が一日に何度も定妃殿に通うので、悪い噂が多く流れた。

幼少期に生母と養母を相次いで失った禑王にとって、養育を担った定妃安氏は特別な存在だったと考えられます。王は一日に何度も定妃殿を訪れたため宮中では噂も広まり、この頃には彼女のために慈惠府という住まいを新たに設けています。

遼東討伐軍の派遣

1388年2月、明が鉄嶺以北の割譲を一方的に通告すると、実権を握っていた崔瑩はこれを拒否し、遼東討伐軍の派遣を決定しました。そして、その実行を李成桂に命じます。

巨大な明に挑む遠征は無謀と見られましたが、親明派として勢いを増していた李成桂の軍勢を削ぐ意図もあったとされます。禑王は崔瑩を総司令官に据え、曹敏修・李成桂を左右都統使として軍を編成しました。崔瑩自身は遠征に参加しませんでした。

李成桂の威化島回軍

遼東討伐に当初から懐疑的だった李成桂は、豪雨により威化島で足止めされ、食料不足や兵の脱走が相次ぐ中、撤退を提案しました。しかし、禑王と崔瑩はこれを拒否。李成桂は最終的に威化島回軍を決断します。

都へ引き返した李成桂は開京を包囲、崔瑩を捕らえて流刑に処します。こうして、李成桂と曹敏修は軍事権を含む全権力を掌握しました。

禑王の最後

威化島回軍後、李成桂と曹敏修は次の王を巡って対立します。曹敏修は王昌(禑王の子)を即位させて禑王を上王として江華島へ追放しました。

新王朝を望む李成桂は大司憲の趙浚と結託、田制改革の反対を理由に曹敏修を弾劾して流刑に処します。

さらに禑王を辛旽の子とする主張を掲げて昌王を廃位、1389年12月、禑王父子は流刑地で処刑されています。

まとめ

恭愍王の子として生まれた禑王は高麗第32代王として即位しましたが、政治の実権は李仁任や崔瑩ら有力臣下に握られ、独自の政治を行うことは困難でした。やがて王位を追われ、辛旽の子と断定されて処刑されます。

しかし、現在では「高麗史」や「太宗実録」に記された禑王像は、朝鮮王朝成立を正当化する過程で形づくられた虚像である可能性も指摘されています。

error: Content is protected !!
タイトルとURLをコピーしました