崔瑩(チェヨン)は実在した人物です。
ドラマ「シンイ」で日本でも知られた崔瑩は民に慕われた勇猛な武将でした。
崔瑩はどんな人物だったのか?
実在した崔瑩について詳しくご紹介します。
実在した崔瑩(チェヨン)はどんな武将?
崔瑩は朝鮮建国時に、李成桂の政敵として君臨したにもかかわらず、高麗史の「列伝(功績のあった人物の伝記)」に記録されています。
また、李成桂は崔瑩の死を惜しみ、朝鮮建国後に崔瑩の「罪」を消して、「武愍」という諡まで与えています。
崔瑩は民衆からも慕われ将軍でした。
老将・崔瑩の死が伝えられると民は家の門を閉め、涙を流して喪に服しました。
崔瑩のプロフィール
崔瑩のプライベートなことについては、ほとんど記録がありませんが、武将としては気概があり、勇ましかったと言われています。
高麗史では、その人柄を「剛直にして忠臣、なおかつ清廉(心が清らかで私欲がないこと)」と褒め称えています。
崔瑩(チェヨン)
生年:1316年
没年:1388年
享年:73歳
氏族:東州崔氏
諡号:武愍
父:崔元直
母:鳳山智氏
妻:文化柳氏
崔瑩の家系図
崔瑩は崔俊邕(チェ・ジュンオン)を始祖とする東州崔氏一族の出身です。
本貫の東州は鉄原の旧名で、江原道北西部、嶺西地方北部に位置する地名のことです。
始祖の崔俊邕は蘇伐都利の子孫で、高麗太祖を助けて統合三韓功臣になり、三重大匡に任命されました。
<崔瑩の家系図>
崔瑩の家系は代々、高官を務めた高麗では名門の一族です。
崔瑩の家族
崔瑩の正室は文化柳氏、息子は崔潭(チェ・ダム)と崔彦(チェ・オン)です。
崔潭は官職に就いていましたが、崔瑩が処罰されると、崔瑩同様に流刑にされました。
晩年は釈放され、崔瑩の墓の近くで隠遁、最後は病死しています。
禑王の第2妃となった娘(寧妃崔氏)は「崔瑩の妾の子」でした。
禑王が流刑になると、一緒に流刑にされています。
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
父 | 崔元直 | 不詳 | 司憲府諫官 |
母 | 鳳山智氏 | 不詳 | |
姉 | 不詳 | 不詳 | 金允明の妻 |
妻 | 文化柳氏 | 不詳 | 三韓國大夫人 |
長男 | 崔潭 | 不詳 | |
次男 | 崔彦 | 不詳 | |
長女 | 不詳 | 不詳 | 司空敏の妻 |
妾 | 不詳 | 不詳 | |
娘 | 寧妃崔氏 | 不詳 | 禑王の第2妃 |
崔瑩の妻
崔瑩の妻は、姓が柳氏(ウシ)、本貫が文化、尊号として三韓國大夫人が贈られたことしか分かっていません。
シンイでチェ・ヨンの相手役のキム・ヒソンが演じた外科医の名前はユ・ウンスでした。
姓は「ウ」、つまり、史実の崔瑩の妻の柳(ウ)と同じ姓です。
ここに、作者の意図が感じられますね。
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崔瑩の生涯
1316年、崔瑩は崔元直の息子として生まれました。
武官として活躍する
早くから武官の道に進んだ崔瑩は多くの戦いでその功績が残されています。
1352年、趙日新が乱を起こしたとき、崔瑩は李仁復と共に乱の鎮圧にあたりました。
1356年5月、崔瑩は西北面兵馬副使として元に占領された鴨緑江西域の攻撃に参加して、鴨緑江西域の8つの軍事基地の奪還に成功しています。
1359年12月、紅巾賊が4万の大軍で西京(平壌)を侵攻しましたが、崔瑩は数人の将校と共に撃破しています。
更に、1361年1月、紅巾軍が再び10万という大軍で侵攻してきましたが、崔瑩は総指揮官としてこれを撃破、功臣に称されて典理判書に任命されました。
1363年3月、恭愍王の命を狙った反乱「興王寺の変」が起こりますが、崔瑩により鎮圧されました。
崔瑩はその功績により、一等功臣に称され、賛成事に任命されています。
元からの脱却に貢献
長い間、元の支配下にあった高麗は、恭愍王が即位すると反元政策を進め、元の影響力からの脱却を図りました。
1356年5月には、奇皇后の兄・奇轍(キチョル)を殺害、奇氏一族を粛清しています。
また、同年7月には元が制圧していた双城総管府を陥落させることに成功します。
強固に反元政策を進める高麗への反撃の機会を狙っていた元の奇皇后が遂に、高麗への反撃を開始します。
1364年、反元政策を進める恭愍王を排除しようと、奇皇后が崔儒に元兵1万を与えて高麗に侵攻させました。
しかし、崔瑩の活躍により、鴨緑江を越えて高麗に入って崔儒の軍は、国境近くで壊滅されてしまいます。
高麗が元の干渉から脱するキッカケとなる歴史的な大勝利でした。
恭愍王が暗殺される
1374年、恭愍王が突然亡くなります。
子弟衛の洪倫と官吏の崔萬生に暗殺されたとも言われています。
李仁任(イ・イニム)は政権を掌握するために、まだ幼い禑王を第32代高麗王に推挙しました。
禑王は僅か10歳で即位しています。
この時、崔瑩は六道都統使(総司令官)に任命されています。
倭寇との戦いで功績を上げる
このころ、倭寇が頻繁に朝鮮半島に侵略して、食料や民の強奪を繰り返していました。
崔瑩は倭寇討伐に出兵、多くの戦いで功績を上げています。
有名な戦功としては
1376年:鴻山大捷(鴻山での大勝利)
1377年:西江での勝利
1378年:首都近郊の昇天府での勝利
などがあります。
こうした功績に対して、1376年には鉄原府院君の尊称が与えられ、翌年の1377年3月には六道都統使、1380年には海道都統使に任命されています。
1380年1月、王室を支えてきた明徳皇后が亡くなり、李仁任の独裁政治が始まりました。
その年の8月には、禑王と王妃・謹妃李氏との間に王昌が誕生しています。
朝廷の最高位に就く
1388年1月、戊辰被禍(ムジンピファ)が起こりました。
李仁任の側近・廉興邦の使用人李光が趙胖の土地を強奪した事件をキッカケに、崔瑩と李成桂が林堅味、廉興邦ら李仁任一派を処刑した事件です。
李仁任一派を朝廷から排除すると、崔瑩は朝廷の最高位・守門下待中、李成桂は守門下侍中に赴任しています。
遼東征伐
1388年の2月、明が鉄嶺以北の土地の領土権の占有を一方的に通告してきました。
そして、明は具体的な行動にでます。
軍事組織である鉄嶺衛を鉄嶺以北に設置したのです。
鉄嶺以北の土地は恭愍王が元からやっと奪回した土地でした。
一方的な通告に怒った禑王と崔瑩は遼東地域を支配下に置くことで、明の圧力を退けようと遼東征伐を計画します。
1388年4月18日、李成桂を右軍都統使、曹敏修を左軍都統使とする遼東征伐が開始されました。
この派兵に対して、李成桂は「四不可論」を掲げて反対を表明していましたが、やむなく、崔瑩に従っています。
高麗史にはこのときの軍事規模を次のように記録しています。
左右軍,共三萬八千八百三十人,傔一萬一千六百三十四人,馬二萬一千六百八十二匹 <引用元:高麗史 列傳卷第五十 辛禑十四年(1388年4月)>
「傔」とは雑務、輸送などを担当した兵士以外の人のことです。
このとき、崔瑩は八道都統使(総司令官)として禑王と平壌に残っていました。
威化島回軍
1388年5月7日、討伐軍は鴨緑江の中洲である威化島に到着しますが、大雨による増水で川は氾濫、足止めをくいます。
日が経つにつれて、兵士は疲れ切り、食料も不足、指揮は下がり脱走する兵士が後を絶ちませんでした。
李成桂は撤退を要求しましたが、禑王はこれを却下します。
5月22日、李成桂は遂に、開京に戻ることを決定します。
よく知られた、威化島回軍です。
崔瑩の最後
6月1日、討伐軍は開京近郊に帰還し、都城を包囲しました。
そして、2日後の6月3日、都城への侵攻を決行します。
この時、李成桂率いる右軍は東門(崇仁門)、曹敏修率いる左軍は西門(宣義門)から突入しています。
都城はあっけなく陥落、禑王と崔瑩は捕えられました。
崔瑩は高陽(ソウルに隣接する地)に流され、合浦に移された後に、開京に戻され「攻遼罪」で斬首されています。
将軍の死を知った民は家の門を閉め悲しみに暮れたと伝えられています。
崔瑩のお墓
崔瑩将軍は京畿道高陽市に柳氏夫人と二人で埋葬されています。
崔瑩のお墓の奥には、父・崔元直のお墓もあります。
<崔瑩のお墓>
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歴史上の崔瑩
崔瑩は遼東征伐という無茶な軍事行動を強行し、高麗を破滅させた武将でした。
遼東征伐の責任を取らされて、斬首されています。
しかし、李成桂は朝鮮建国後に崔瑩の「罪」を許して、「武愍」という諡を与えています。
一族が破滅させられることもありませんでした。
また、朝鮮時代に編集された高麗史には、功績のあった人物の伝記として記録されています。
現在も崔瑩は高麗に忠誠を尽くした武将として評価されています。
崔瑩が登場したドラマ
崔瑩は高麗末期から朝鮮建国を扱ったドラマには必ず登場しています。
・開国(1983年、シン・グ)
・太宗大王(1983年、キム・ギロ)
・龍の涙(1996年、キム・ソンオク)
・辛旽-シンドン
(2005年、チェ・サンフン)
・シンイ-信義(2012年、イ・ミンホ)
・大風水(2012年、ソン・ビョンホ)
・鄭道伝(2014年、ソ・インソク)
・六龍が飛ぶ
(2015年、チョン・グクファン)
・太宗イ・バンウォン
(2021年、ソン・ヨンテ)
( )内は崔瑩を演じた俳優
まとめ
崔瑩は高麗時代から朝鮮時代の転換期を語るに欠かせない歴史的人物でした。
高麗を守る崔瑩と新しい国の建国を目指す李成桂は交わることのない政敵でしたが、最後まで李成桂は崔瑩という武将を尊敬していたと思われます。
それは、朝鮮建国後に、李成桂が崔瑩に対して行った数々の所業を見れば明らかです。