ドラマ「高麗契丹戦争」で一躍有名になったヤンギュですが、
ヤンギュは実在したのか?
その実在性を史実から徹底検証しました。
ヤンギュが実在した証拠
ヤンギュの実在は韓国の正式な歴史書「高麗史」に次のように記録されていることから明らかです。
楊規,事穆宗,累官刑部郞中
<引用元:高麗史列傳第九十四 楊規>
「高麗契丹戦記」の著者・キル・スンスはヤンギュについて、
「ヤンギュは指導力が卓越していて、かつ兵士らは訓練が施されていた。」
「イ・スンシン(韓国の有名な武将)には優秀な船があったが、ヤンギュの場合は体で戦うしかなかった。彼は韓国史で類をみない人物だった。」
と彼が優れた人物であることを述べています。
また、韓国学中央研究院の責任研究員チョン・ヘウンは、ヤンギュによる郭州城の奪回について、
「韓国史だけでなく、アジアや世界的にも全く例がありません。」
と絶賛しています。しかし、
「彼らの死の過程や勇敢な戦い方について、歴史書に記録はありません。」
と戦況や戦術の記録がないことを非常に残念がっています。
このため、ヤンギュの存在は日本だけでなく、実は、韓国でさえほとんど知られていない人物でした。
しかし、高麗史の記録や学者、研究者の見解から、もはや、ヤンギュの実在性を疑る余地はありません。
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興化鎮を死守した奇跡の勝利
ヤンギュは、たった3000人の兵で40万の契丹軍から奇跡的に興化鎮を守り抜きました。
高麗史には次のように記録されています。
規爲都巡檢使,與鎭使、戶部郞中鄭成,副使、將作注簿李守和,判官、廩犧令張顥,嬰城固守。
<引用元:高麗史列傳第九十四 楊規>
戦闘に先立ち、高麗軍の士気をさげるために高麗の捕虜(女子供、高齢者)が眼の前で殺害されたといいます。
悲劇的な惨劇から始まった契丹軍の攻撃は7日間続きました。
しかし、ヤンギュは飛距離の出る弓で多くの兵を寄せ付けず、地面に毒を塗った鉄針で騎兵隊の馬を倒し、猛火油(メンファユ)で城に近づいた兵士を焼き殺すなど、奇抜な戦術を巧みに使い、敵を城内に入れることはありませんでした。
<江東6州の6つの城>
ついに、契丹軍は興化鎮への攻撃を諦め、兵20万人を残して、高麗の主力軍を目指して南下していきます。
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契丹軍の怒濤の侵攻
興化鎮の攻略を諦めた契丹軍は通州に侵攻しました。
カン・ジョ(康兆)が率いる30万人の高麗軍が迎え撃ちますが、高麗は3万人の兵士を失う大敗北を喫します。
契丹軍は侵攻の名目であったカン・ジョを捕らえて殺害し、更に、江東6州の郭州城、案州城、粛州城を陥落させて西京に迫りました。
<契丹の侵攻経路>
高麗第二の首都・西京(現在の平壌)が落ちれば、開京も陥落することは目に見えていました。
西京を超えると開京まで防衛する城は無かったのです。
激しい戦闘を終えたヤンギュでしたが、休む暇は無かったと思われます。
死傷者の対応、次なる戦闘の準備に追われる中で、カン・ジョが率いる軍隊の大敗北を知ったのではないでしょうか。
ヤンギュは常識では考えられない行動にでました。
郭州城の奪回
1010年12月16日、兵士700人と興化鎮を出たヤンギュは通州城で1千人の兵士を集めて、契丹が陥落させた郭州城に向かいました。
そして、真夜中に郭州城に侵入し、高麗兵1700人で契丹兵6千人を攻撃しました。
ヤンギュはまたも奇跡的に郭州城の奪回に成功、城の中の捕虜7千人を救い出しています。
郭州城が奪還されたことを知ると、西京城を攻めていた契丹軍に動揺が走りました。
ヤンギュは高麗の奥深くまで入り込んだ契丹軍を孤立させると同時に退路を塞いだのです。
焦りを感じた契丹は西京城の攻略を諦めて、開京への侵攻を始めます。
高麗王を捕らえれば、この戦争は終結できると考えたのです。
開京に到着した契丹軍は食料を略奪し、多くの民を捕虜にし、開京を燃やしつくしましたが、高麗王の顕宗はすでに開京を離れていました。
契丹はこれ以上深入りできず、開京に入城後10日で撤収を始めました。
契丹の圧倒的勝利と思われた状況下において、まさに、軍事的天才ヤンギュの戦略が功を奏した結果でした。
ヤンギュの驚くべき活躍と最後
撤収する契丹軍に対して、ヤンギュと郭州城を奪還した1700人の兵士が再び、動き出しました。
ヤンギュと兵士は撤収する契丹軍から捕虜を救出するため、何度も奇襲を仕掛けました。
高麗史節要には、次のようにヤンギュの活躍が具体的な数値とともに記録されています。
ヤンギュは7回の戦闘で、捕まっていた約3万人の民を取り戻した。
<引用元:高麗史節要>
高麗史節要とは高麗史のダイジェスト版の位置づけですが、高麗史とは別に編纂されたためにオリジナルの記事が多く、高麗史と同じく貴重な史書です。
ヤンギュは僅かな兵を従えて、わずか一か月の間に捕虜三万余人の命を救出しましたが、1011年1月28日、ついに、契丹の皇帝が率いる契丹軍本隊と対面します。
ヤンギュとキム・スクフンは一日中奮戦しましたが、矢も尽き、最後は戦死してしまいました。
ヤンギュの生涯
高麗契丹戦争以前のヤンギュ(楊規)に関する記録はほとんどありません。
ヤンギュは安岳郡の出身で先祖は渤海の有力貴族だった楊氏ではないかとも言われています。
死後、ヤンギュの功績に対して工部尚書が追贈され、十年後、キム・スクフンとともに功臣録に記録、十五年後には「三韓後壁上功臣」の称号を授けられています。
また、史書には、妻の殷栗郡君洪氏と息子の帯春が記録されています。
息子の帯春は、ヤンギュの功績により、校書郎に任じられると、靖宗六年には安北大都護府副使、その後、直門下省・衛尉卿を務めました。
まとめ
ヤンギュは興化鎮の死守や郭州城の奪回、さらに3万人の捕虜救出など、数々の戦功で高麗を滅亡の危機から救った武将でした。
しかし、彼の活躍は長らく歴史の中で埋もれ、日本のみならず韓国国内でもほとんど知られていませんでした。
その一方で、高麗史や学者の評価からも明らかなように、ヤンギュの存在は疑いようがなく、彼の功績は高麗契丹戦争の勝敗を大きく左右したことは間違いありません。
ヤンギュの戦いは「一武将の戦いが国家の存亡を決する」ことを示す貴重な教訓として、後世に語り継がれることでしょう。
また、ヤンギュの発見は、ドラマが隠れた英雄を掘り起こす原動力になることを大いに感じさせるものでした。