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定妃安氏の家系図【高麗3代の王を廃位させた悲劇の大妃】

3人の王に廃位の教旨を下した定妃は

高麗最後の大妃でした。

定妃安氏はどんな王妃だったのか?

家系図から詳しく調べました。

 

定妃安氏の家系図

定妃安氏は旧竹山安氏の一族で、始祖は安濬といわれています。

安濬の先祖は9世紀の初めに倭寇を撃退して戦功を上げた安氏3兄弟の末の弟・安邦侠です。

<定妃安氏の家系図>

 

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定妃安氏はどんな王妃だったのか?

定妃安氏の人柄に関する記録は見つかりません。

しかし、高麗崩壊から朝鮮建国の激動の時代を、恭愍王、禑王、昌王、恭譲王、太祖、定宗、太宗、世宗と8人の王の時代を生き抜いた女性でした。

これだけ見ても、処世術に長けた人物であったことは間違いありません。

 

定妃安氏のプロフィール

定妃安氏
生年:1352年頃
没年:1428年
享年:77歳
氏族:竹山安氏
父:安克仁(竹城君)
母:嘉利李氏
夫:恭愍王
墓:不詳

 

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定妃安氏の家族

定妃安氏の父・安克仁は重大匡右文館大提學を務めた高官でした。

祖父の安社卿は守門下侍中、曽祖父の安漢平は判戸曹事を務めるなど、代々、官僚を務めた家系でした。

恭愍王との間には子供はできませんでした。

関係 名前 生年-没年 備考
安克仁 1296-1383 竹城君
嘉利李氏 1296-不詳
安天老 1344-不詳
安仲老 1350-不詳
安叔老 1353-1394
本人 定妃安氏 1352-1428 生年は推定
恭愍王 1330-1374
子供 なし

 

定妃安氏の生涯

定妃安氏は安克仁の長女として生まれました。

生年は1352年頃と思われます。

 

恭愍王の王妃に冊封される

1365年2月に恭愍王の寵愛する王妃・魯国公主が亡くなりました。

そこで、翌年の1366年10月に安氏は恭愍王の王妃(定妃)に冊封されました。

この時、王氏も王妃(益妃)に冊封され、漢氏の姓が与えられています。

 

魯国公主亡き後、恭愍王には4人の王妃がいたことが記録されています。

高麗時代の王には多妻が許容されましたが、王の死後には各王に嫡妃一人が定められたようです。

<恭愍王の4人の王妃>
・定妃安氏
・益妃漢氏
・恵妃李氏
・慎妃廉氏

 

父・安克仁が追放される

1368年、同知密直司事となった父の安克仁は、侍従の柳濯と共に馬巖役の中止を上訴しました。

馬巖役とは、魯国公主の影殿を建設する工事のことで、民の労役の面でも、財政の面でも大きな負担になっていました。

 

しかし、この上訴は恭愍王の怒りを買い、安克仁は朝廷から追放されてしまいます。

このとき、定妃安氏も実家に戻されています。

 

国王の不理屈な仕打ち

宮殿に戻った定妃安氏は、恭愍王から信じられない酷い扱いを受けました。

恭愍王は王妃に子弟衛(恭愍王21年に宮中におかれた官庁)の青年たちと関係を持たせ息子を得ようとしたのです。

定妃安氏は頑なに抵抗、自害までしようとしました。

魯国公主の死後、恭愍王の変質的な性格が極度に酷くなったといいます。

 

恭愍王の暗殺と禑王の即位

恭愍王の強制に屈したのが、益妃韓氏でした。

1374年、益妃韓氏は恭愍王の命令で子弟衛の洪倫(ホンリュン)と通じ、妊娠してしまいます。

 

宦官の崔萬生(チョ・マンセン)がこのことを恭愍王に知らせると、恭愍王はこの事実をしる洪倫と崔萬生の口封じを図ります。

しかし、逆に危険を感じた洪倫と崔萬生に殺害されてしまいます。

恭愍王が暗殺されると、李仁任の推挙で、息子の禑王がわすが10歳で即位します。

 

禑王の退位しと昌王の即位

1388年、威化島回軍で都に戻った李成桂は崔瑩を捕らえ流刑にしました。

崔瑩という後ろ盾を失った禑王は王座から追放されてしまいます。

 

定妃安氏は大妃として、禑王の息子・王昌を国王にすることに同意します。

昌王はまだ幼少の9歳でした。

なお、昌王の即位後、臺臣(司憲府の官員)は定妃、惠妃、愼妃は共に正嫡(正妃)ではないので、ただ歲祿(給金)だけを与えてほしいと頼んだという記録が残っています。

 

恭譲王の擁立

1389年、李成桂一派は正統な王位継承者でないと言う理由で昌王を廃位、恭譲王を擁立します。

この時、定妃安氏は王大妃として、昌王の廃位と恭譲王の即位の教旨を下しています。

恭譲王は、その後、定妃安氏の住まいを敬愼殿に移し、貞淑宣明敬信翼成柔惠王大妃の称号を与えています。

 

高麗の滅亡と朝鮮王朝の建国

1392年、恭譲王を廃位し、李成桂が国王として即位しました。

定妃安氏は王大妃の資格で太祖に玉璽を渡しました。

遂に、475年続いた高麗王朝が滅亡し、朝鮮王朝が樹立されたのです。

 

定妃安氏は禑王、昌王、恭譲王と高麗3代の王に廃位、昌王、恭譲王、太祖と3代の王に即位の教旨を下しました。

滅びゆく高麗王朝を目の当たりにした定妃安氏は高麗最後の大妃でした。

 

大妃からの降格

高麗王朝の崩壊とともに、定妃安氏は義和宮主に降格しています。

晩年は酒浸りの日々を送ったとも言われています。

太宗実録には次の記録が残されています。

日賜酒一甁于義和宮主 安氏, 卽前朝恭愍王 定妃也。
<引用元:太宗実録1415年5月25日>

<訳>毎日酒を一本、義和宮主安氏に下賜した(与えた)。彼女は高麗王朝 恭愍王の定妃である

 

定妃安氏の最後

定妃安氏は朝鮮建国後、太祖、定宗、太宗、世宗と4代の時代を生き抜き、1428年5月14日に亡くなっています。

義和宮主 安氏卒, 賜賻米豆各一百石。 安氏, 卽高麗 恭愍王 定妃也。
<引用元:太祖実録1428年5月14日>

<訳>義和宮主安氏が亡くなった。米と豆を各百石を下賜した(送った)。安氏は高麗恭愍王の定妃であった。

 

葬儀は高麗王朝の制度に従って行われ、王妃の礼とし扱われました。

しかし、どこに埋葬されたかは不明です。

 

実録には、定妃安氏が上王(太宗)の誕生日にプレゼントを送ったことや朴苞の家が与えられたことが記録されています。

毎晩、飲酒していたことが記録されている定妃安氏ですが、決して人を恨み続けた人生ではなかったと思われます。

 

まとめ

定妃安氏は高麗の末期から朝鮮の初期の激動の時代を生き抜いた王妃でした。

定妃安氏が仕えた王は、恭愍王から禑王、昌王、恭譲王、太祖、定宗、太宗、世宗まで、何と8人にも及びます。

 

王妃の時代は屈辱を味わい、大妃となってからは高麗王3代へ廃位の教旨を下すなど辛い人生を歩みました。

しかし、葬儀は高麗王妃の礼に従って行われるなど、定妃安氏は最後まで丁重に扱われた王妃でした。

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