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孝顕王后の家系図【安東金氏の政略結婚の犠牲となった短命の王妃】

孝顕王后は歴史上、注目されることはほとんどありません。

しかし、孝顕王后の政略結婚が安東金氏の勢道政治の一端を担ったことは間違いありません。

孝顕王后の生涯を孝顕王后の家系図から調べてみました。

 

 孝顕王后の家系図

孝顕王后は第24代国王・憲宗の正室で、安東金氏一族の出身です。

<孝顕王后の家系図>

安東金氏の一族は代々、朝廷の高官を務めてきました。

朝鮮王朝の後期では、3人の女性を王に嫁がせることで外戚として権力を掌握しました。

そして、約60年間に渡り勢道政治で朝廷を牛耳っていきました。

<孝顕王后の先祖>

名前 時代 最終官職
九代祖 金尚憲 仁祖~孝宗 左議政
八代祖 金光燦 仁祖~顕宗 同知中枢府事
七代祖 金壽恒 顕宗~粛宗 領議政
六代祖 金昌集 粛宗~景宗 領議政
五代祖 金濟謙 粛宗~景宗 右副承旨
高祖父 金坦行
曾祖父 金履素 英祖~正祖 左議政
祖父 金芝淳
金祖根 純祖~憲宗 領議政に追贈

 

孝顕王后が王妃になった背景

純祖が安東金氏の勢力を抑えるために、息子の孝明世子の嫁に豊壌趙氏の神貞王后を選びました。

代理聴政した孝明世子は豊壌趙氏を要職に重用したため、安東金氏の勢力を凌ぐ力を持ち始めました。

 

しかし、突然、孝明世子が急死します。

これを機会に安東金氏が再び勢力を盛り返しました。

 

そして、純祖が亡くなり、孫の憲宗が即位すると、幼い憲宗に代わり姑の純元王后が垂簾聴政を行います。

純元王后は豊壌趙氏の勢力を完全に抑えるため、安東金氏の一族から憲宗の嫁を選びます。

それが孝顕王后でした。

孝顕王后が王妃に選ばれた背景には、安東金氏一族の外戚としての権力維持があったのです。

 

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孝顕王后はどんな王妃だったのか?

孝顕王后は10歳で王妃となり、16歳で亡くなりました。

そのため、孝顕王后自身が安東金氏の権力維持ために行動したことはなかったと思われます。

最後まで、外戚として王族と関係を持つための王妃だったのです。

孝顕王后のプロフィール

孝顕王后は性格も大人しく、目立たなかったせいか、生前の特別な記録はありません。

<プロフィール>
生年:1828年3月14日(陰暦)
没年:1843年8月25日
配偶者:憲宗
子女:なし
氏族:新安東金氏
父親:金祖根
母親:漢城府夫人

 

孝顕王后の宮殿での生涯

1837年に10歳で憲宗に嫁いだ孝顕王后ですが、1843年に16歳の若さで亡くなってしまいます。

純元王后の垂簾聴政が終わり、憲宗がやっと自身で政治を始めて1年後でした。

憲宗との間には子供はできませんでした。

 

孝顕王后が10歳で入宮したときに、純元王后は49歳。

純元王后が孝顕王后を手なずけるなど、いとも簡単だったでしょう。

 

少女として宮殿で生涯を終えてしまいます。

1849年に憲宗も何の実績も残せずに22歳の若さで逝去しています。

<宮殿での生涯>
1834年:憲宗が7歳で第24代国王に即位
姑の純元王后の垂簾聴政が始まる
1837年:孝顕王后が10歳で王妃になる
1842年:憲宗が15歳で親政を始める
1843年:孝顕王后が16歳で死去
1849年:憲宗が22歳で死去

 

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孝顕王后の家族

孝顕王后と憲宗には子供はできず、孝顕王后は16歳で亡くなってしまいます。

従って、孝顕王后は自身の家族を持つことはありませんでした。

関係 名前 生年-没年 備考
金祖根 1793-1844年 領議政に追贈
漢城府夫人 生没年不詳 漢山李氏
実母 興陽府夫人 生年不詳-1872年 驪興閔氏
憲宗 1827-1849年 第24代国王
本人 孝顕王后 1828-1843年 憲宗の正室
子女 なし
金炳潗

 

 父親の金祖根

孝明世子が代理聴政していたときに、勢力を拡大してきた豊壌趙氏に対抗する安東金氏の中心人物が金祖根でした。

当時、承旨だった金祖根は娘が王妃になると、領敦寧府事に昇格しました。

そして、御営大将など軍営の大将の重要職を歴任しました。

領議政に追贈されています。

 

 まとめ

孝顕王后の家系図を調べると、安東金氏一族が朝廷で権力を掌握していく過程を知ることができました。

代々、安東金氏一族は朝廷の重要職を歴任してきましたが、一族から王妃を出すことにより外戚となりました。

外戚となった安東金氏は、その力で朝廷の官職を独占していきました。

こうして、60年間に渡る王権も恐れぬ勢道政治の基盤が築かれていきました。

 

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