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金蛙王(クムワワン)家系図【高句麗神話に現れる朱豪の父】

正確には、金蛙王(クムワワン)は朱豪の養父です。

実父は解慕漱(ヘモス)と言われています。

神話の金蛙王とはどんな王なのか?

家系図から調べてみました。

金蛙王の家系図

金蛙王(クムワワン)は神話上の人物であり、実在しない人物とされています。

高句麗滅亡後400年以上経って書かれた「三国史記」及び「三国遺事」にのみ登場することも、その理由の一つです。

高句麗の正式な歴史書である「三国史記」に記述された金蛙王の話は、とても神話的な要素が強い説話になっています。

 

そのため、建国神話作成のために後から創造された人物とも言われています。

ここでは、ドラマ「朱豪」の相関関係に近い、「三国史記」の家系図をご紹介します。

<金蛙王の家系図>

 

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金蛙王はどんな王だったのか?

「三国史記」によると金蛙王(クムワワン)は、東扶余の初代王・解夫婁(ヘプル)が道中で見つけた子供でした。

老いても子どものいなかった解夫婁が子どもの誕生を願って詣でた山道でのことでした。

つまり、金蛙王は正当な王の血を引く王族ではなかったのです。

 

金蛙王のプロフィール

東扶余第2代国王
金蛙王(クムワワン)
王朝:東扶余
在位期間:不詳
都城:迦葉原
生年:不詳
没年:不詳
父:解夫婁王(ヘプルワン)
母:不詳

 

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金蛙王の家族

金蛙王には、朱豪以外に7人の息子がいたと言われています。

三国史記に登場するのは、金蛙王を継いで第2代王となる帯素王(テソワン)と東扶余を脱出して、曷思国を建国する末弟の曷思王です。

 

史書では、朱蒙は解慕漱(ヘモス)と河伯の娘である柳花夫人の息子であることを示唆しています。

金蛙王は朱豪にとって実父ではなく養父ということになります。

<金蛙王の家族>

関係 名前 読み方 備考
解夫婁 ヘプル 東扶余第1代王
不詳
本人 金蛙 クムワ 東扶余第2代王
正室 不詳
長男 帯素 テソ 東扶余第3代王
次男~六男 不詳
七男 不詳 曷思王
側室 柳花 ユファ 河伯の娘、朱豪の母
継子 朱蒙 チュモン 高句麗初代王

ドラマ「朱豪」に登場する憎みきれない王子ヨンポは架空の人物です。

 

金蛙王の生涯

史書に記録されている金蛙王の生涯は神話的要素が強く、どこまでが史実なのか判断が難しいようです。

ここでは「三国史記」に記録された金蛙王の生涯をご紹介します。

 

解夫婁王の太子となる

解夫婁王には子供がいませんでした。

ある日、道中で金色の蛙の姿をした子供に会います。

この金色の蛙が金蛙王で、解夫婁王は天が与えた子どもと考え、太子にしました。

神話なので何とも言えませんが、金蛙王は解夫婁王の実の子ではなかったと思われます。

 

東扶余の建国

ある時、天神が降臨した占者が宰相の阿蘭弗に都を迦葉原の地に移すことを進言しました。

阿蘭弗からこの進言を聞いた解夫婁は、東海の迦葉原の地に都を移して、国名を東扶余としました。

そして、解夫婁は東扶余の初代王となります。

解夫婁が退去した跡地には、天帝の子を自称する解慕漱(へモス)が現れ、北扶余として国王となったといいます。

 

柳花との出会いと朱豪の誕生

東扶余の第2代王に就いた金蛙王が川辺で柳花(ユファ)と出会います。

柳花(ユファ)は解慕漱(へモス)と愛し合いましたが、解慕漱はどこかに消えてしまったといいます。

 

金蛙王は柳花を連れて帰り、家に閉じ込めると日の光が柳花を照らしました。

光の当った柳花は身ごもり、大きな卵を生みました。

この卵から生まれたのが朱豪でした。

日の光に照らされて始祖が卵から生まれる神話は卵生神話と呼ばれ、日本では馴染みがありませんが、東アジアに多くみられるようです。

 

現実的な話として解釈すると、金蛙王は身ごもった美しい柳花に一目惚れして、宮殿に連れて帰り、生涯寵愛したと思われます。

但し、神話的な要素が多く、子供(朱豪)が解慕漱(へモス)の子である確証は見当たりません。

 

朱豪を実子のように育てる

金蛙王には7人の子供がいましたが、朱豪を実子のように育てました。

「三国史記」には、次のような記述が見られます。

金蛙有七子,常與朱蒙遊戯、其伎能皆不及朱蒙
<引用元:三国史記卷十三 高句麗本紀 第一より抜粋>

<訳>金蛙には7人の子があり、いつも朱豪と遊んでいたが、その能力は朱豪には及ばなかった。

これは、朱豪が他の子供と同じ待遇を受けていたことを示しています。

また、朱豪の能力が他の王子より優れていたようです。

後に、朱豪の能力を恐れた長男のテソは朱豪を排除することを王に進言していますが、金蛙王はこの進言を聞き入れませんでした。

 

愛する柳花の死

BC24年、柳花が東扶余で亡くなりました。

柳花が亡くなると、金蛙王は葬儀を大后の礼にのっとり行いました。

更に、神廟を建造しています。

史実としては、たった1行の記録ですが、金蛙王が深く柳花を愛していたことが分かる記録です。

 

金蛙王の最後

金蛙王がいつ亡くなったのか、記録は残っていません。

扶余国を就いだ帯素(テソ)が王となり、和睦のため高句麗の人質を要求したことが、瑠璃王十四年(BC6年)の記録にあります。

十四年,春正月,扶餘王帶素遣使來聘,請交質子
<引用元:三国史記卷十三 高句麗本紀 第一から抜粋>

<訳>BC6年1月、扶余王の帯素が使者を派遣し、人質を交換して国交を開くことを要請してくる

從って、紀元前6年までに、金蛙王は亡くなるか、帯素(テソ)に譲位したものと考えられます。

 

まとめ

歴史書に現れる金蛙王は神話的な記述が多く、どこまでが史実なのか判断が難しい人物でした。

史書から言えることは、

・金蛙王は王の血を引く後継者ではないこと
・金蛙王は朱豪の養父であること
・朱豪を自分の王子と同じように扱ったこと
・生涯、柳花を大切にしたこと

などです。

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