高麗契丹戦争で高麗を守った顕宗とはどんな王だったのか?
顕宗について家系図から詳しくご紹介します。
高麗王・顕宗の家系図
<高麗王・顕宗の家系図>
新羅の王族との関係
祖母の神成王太后は新羅の王族である金宜蓮の娘で、新羅が高麗に降伏したときに関係を深めるために嫁がせた女性でした。
不義の子の背景
顕宗は高麗の初代王・太祖の孫にあたり、父親は8番目の王子・王郁(ワン・ウク)、母親は景宗の第4王妃・献貞王后です。
高麗6代王・成宗は顕宗の伯父にあたり、景宗の第3王妃・千秋太后(献哀王后)は伯母にあたります。
従って、千秋太后の息子である当時の王・穆宗はいとこの従兄にあたります。
顕宗の母親の不義
母親の献貞王后は王旭(ワン・ウク)の娘で初代王・太祖の孫にあたり、景宗の第4王妃でした。
景宗が亡くなると、宮廷外で暮らしていましたが、父の王郁(ワン・ウク)と出会い、情を通じて顕宗を生んでいます。
父親の流刑と逝去
父親の王郁(ワン・ウク)は太祖の息子であり、ドラマ「麗<レイ>」では、王旭(ワン・ウク)と同音のため、ペガの愛称で呼ばれていました。
妹(献貞王后)と情を通じたことを知った兄の成宗は激怒して、父の王郁を流刑にしています。
997年、王郁は流刑地で亡くなりました。
顕宗は即位後に父を安宗と追尊し、1018年には両親の冥福を祈るために、玄化寺を建立しました。
顕宗は非常に複雑な家族関係の中で不義の子だったため、不遇な子供時代を送ったと言われています。
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高麗王・顕宗はどんな王だったのか?
顕宗は12歳の時に千秋太后に無理やり出家させられ、寺を転々とする中で命も狙われる悲劇的な子供時代を送りました。
そのため、即位したときには、名ばかりの王でしたが、次第に威厳ある国王となっていきました。
即位後の顕宗の行動には強固な意志とどんな壁も打ち破る行動力が感じられます。
これは、自分を守ってくれた仏教に対する強い信仰と仏門の中で育成された強い精神力が大きく影響していると推測します。
顕宗のプロフィール
在位:1009年-1031年
姓・諱 :王詢(ワン・スン)
称号:大良院君
諡号:大孝徳威達思元文大王
廟号:顕宗(ヒョンジョン)
生年:992年7月1日
没年:1031年5月25日
享年:40歳
父:王郁(安宗)
母:献貞王后
陵墓:宣陵
高麗史によると、「王は幼いころから聡明で、仁慈に満ちていた。成長してからは学問に励み、書道に秀でていた。また、詩文を好み、耳にしたことや目にしたことを忘れることがなかった。」と記録されています。
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高麗王・顕宗の生涯
幼くして両親を失った顕宗は国王・成宗に引き取られ王宮で育てられました。
出家と度重なる暗殺の危機
997年、成宗が亡くなり、穆宗が第7代高麗王に即位しました。
穆宗の母・千秋太后は金致陽との間に生まれた子を擁立しようと、王位継承の資格を持つ顕宗を強制的に出家させています。
そして、出家した顕宗の暗殺を何度も試みましたが、寺の僧侶が彼を守り、暗殺は失敗しています。
家系図で分かるよに千秋太后は顕宗の伯母であり、息子のためなら甥をも殺す冷酷で残虐な王族の実態を見ることができます。
康兆の乱と顕宗の即位
1009年2月、西北面都巡検使だった康兆が王権の弱体化を機に権力を掌握しようとクーデターを起こしました。
康兆の乱の結果、千秋太后は実家の黄州へ流され、穆宗は廃位後に殺害、金致陽の一派は全員斬首されています。
そして、権力を掌握した康兆は、家系図で分かるように太祖の血を引く顕宗に王位を継承させました。
仏教信仰が政治に与えた影響
顕宗は12歳のときに出家したことから、仏教を心から信仰し、僧侶に絶対的な信頼を置いていたことは間違いありません。
そのため、顕宗は即位すると、僧侶の智宗を王師に任命し、高麗の外交を任せるだけでなく、政治について多くのアドバイスを受けていたと思われます。
仏教は単なる宗教ではなく、政治の重要な要素として機能していたのです。
また、王位継承の正当性が疑問視される顕宗は、仏教を通じて、天命を受けた支配者としての地位を示し、王権を正当化しました。
高麗契丹戦争でのリーダーシップ
1018年の高麗契丹戦争では、顕宗は姜邯賛を指揮官に任命し、迫りくる40万の契丹軍に対して自ら開京死守の決断をくだしました。
顕宗が開京死守を決断したことで契丹軍は開京攻略に失敗、撤退中に亀州で姜邯賛の率いる高麗軍に壊滅的な打撃を受けました。
この強固な意志が亀州の大勝利(亀州大捷)につながり、高麗の独立維持を可能にしました。
顕宗の的確なリーダーシップが戦局を大きく左右したエピソードです。
契丹戦争後の内政改革
顕宗は高麗契丹戦争での経験から国の安定性を痛感して次の内製改革に取り組みました。
・軍事体制の整備
・経済の再建
中央集権化で王権を強化し、軍備を整備して外敵からの侵攻に対処できるようにしました。
また、戦争で荒廃した国土の復興として、農業政策の見直しや租税制度の整備を行い、国の基盤を安定化させました。
顕宗の最後
1031年4月、顕宗が病で倒れました。
5月には、病状が悪化し、太子を呼び寄せて、後事を託すと、重光殿で亡くなっています。
享年40歳、在位22年でした。
廟号は「顯宗」と称され、松岳の西麓に埋葬されて、その陵墓は「宣陵」と呼ばれています。
高麗王・顕宗の家族
高麗王で複数の王妃を持ったと考えられる王は多数いますが、史料から確実に複数の王妃を持ったと確認できるのは顕宗だけです。
(東洋学報 論説「高麗時代の婚姻形態について(著:豊島悠果)」より)
次の表は論説を参考に作成しています。
王妃と子供 | 生年-没年 | 備考 |
元貞王后 | 999-1018 | 成宗と文和王后金氏の娘 |
元和王后 | 不詳 | 成宗と楽浪郡大夫人崔氏の娘 |
・孝静公主 | 不詳 | |
・天寿殿主 | 不詳 | |
元成王后 | 不詳-1028 | 金殷傅の娘 |
・徳宗 | 1016-1034 | 第9代高麗王 |
・靖宗 | 1018-1046 | 第10代高麗王 |
・仁平王后 | 不詳 | 文宗の第1妃 |
・景粛公主 | 不詳 | |
元恵王后 | 不詳-1022 | 金殷傅の娘 |
・文宗 | 1019-1083 | 第11代高麗王 |
・孝思王后 | 不詳 | 徳宗の第3妃 |
・平壌公(王基) | 不詳 | 順宗の妃・貞懿王后の父 |
元容王后 | 不詳 | 王旭の子の敬章太子の娘 |
元平王后 | 不詳-1028 | 金殷傅の娘 |
・娘 | 不詳 |
顕宗の第3王妃・元成王后は第9代王・徳宗と第10代王・靖宗の二人の国王を生んでいます。
元恵王后は、後に第11代王となる文宗を生んでいますが、彼女は息子が王になったことで追尊されたと考えられ、論説には王妃として記載されていません。
元成王后、元恵王后とも伯父にあたる第6代王・成宗の娘です。
顕宗が登場するドラマ
顕宗が登場するドラマは多くありませんが、最近公開された「高麗契丹戦争」は、契丹の高麗侵攻を勝利に導いた顕宗と彼の政治の師であった姜邯賛の生涯を描いた作品です。
・千秋太后(2009年)
・高麗契丹戦争(2023年)
まとめ
高麗第8代王の顕宗は不遇な幼少期を過ごし、波乱の中で即位した国王でした。
しかし、名将・姜邯賛とともに「亀州大捷」に代表されるような大勝利で、外敵の契丹から国を守った王として歴史に名を刻みました。
顕宗の治世は単なる王権の復興に留まらず、高麗の外交的な独立性を確保したという点で高く評価されています。
彼は強い精神力と決断力で幼少の不遇に打ち勝ち、多くの困難を乗り越えた類(たぐい)まれな国王でした。