突然、表舞台に現れた真徳女王。
真徳女王とは、どんな女性だったのか。
家系図からご紹介します。
真徳女王の家系図
真徳女王は「三国史記」によると、第26代王・真平王の弟・国飯の娘と記述されています。
しかし、「旧唐書」では、善徳女王の妹と記述されているなど、出生がハッキリしない人物です。
<真徳女王の家系図>
真徳女王は善徳女王が亡くなると、金庾信らによって擁立されたと言われます。
しかし、なぜ2代に渡って女性が王になったのか、真実は分かっていません。
真徳女王には夫も子供もいませんでした。
そこで、真徳女王が亡くなると、善徳女王の甥の金春秋が武烈王として王位を継いでいます。
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真徳女王はどんな王だったのか?
長身で美人だったとの記録がありますが、詳しいことは何も分かっていません。
諱は勝曼(スンマン)ですが、真平王の継室の僧満(スンマン)とは、全くの別の人物です。
真徳女王のプロフィール
真徳女王は父・国飯と母・月明夫人の間に生まれています。
配偶者がいた形跡はなく、もちろん子供もいませんでした。
新羅第28代王
姓:金
諱:勝曼(スンマン)
生年:不詳
没年:654年3月
在位期間:647年-654年
父:金国飯
母:月明夫人(満天葛文王の娘)
夫:なし
子女:なし
真徳女王の家族
真徳女王の父の金国飯は第26代真平王の同母弟で、母の月明夫人は新羅の王族であった満天葛文王の娘でした。
母:月明夫人(満天葛文王の娘)
夫:なし
子女:なし
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真徳女王の生涯
真徳女王の生年や幼少の頃の記録は全くありません。
善徳女王の逝去と真徳女王の誕生
647年1月、毗曇(ピダム)が善徳女王の退位を求めて、反乱を起こしました。
毗曇(ピダム)の乱です。
善徳女王は金庾信の協力を得て、反乱の鎮圧を試みますが、1月8日に突然、亡くなってしまいます。
善徳女王には子供はおらず、金庾信は真平王の弟・国飯の娘の勝曼(スンマン)を国王に擁立しました。
第28代王・真徳女王の誕生です。
この時、なぜ金春秋が王位に就かなかったのかは現在も謎のままです。
金春秋は聖骨の継承者を選ぶことで、容易に臣下が王権に関与できない王権の神聖性と絶対性を堅持したかったのかもしれません。
親唐政策
高句麗が百済と組み、新羅を滅ぼそうと狙っていました。
新羅はこの危機を脱するために、唐に近づきます。
648年、金春秋は唐に行き支援を取り付けることに成功します。
金春秋は高句麗での交渉失敗の経験を活かし、唐では大国の制度、文化などに対して尊敬の念を持って交渉に当たりました。
その結果、
649年、唐の衣冠礼服の制度を取り入れる。
650年、独自の年号を廃して唐の年号を採用する。
651年、官制も唐に倣ならったものを採用する。
など、急激に親唐政策を進めて、唐との同盟強化を図ることになります。
重臣からは唐への従属化につながると猛反発を受けますが、新羅の生き残る道はこれしかないと、金春秋は強引に親唐政策を推し進めました。
真徳女王の死
金春秋が親唐政策を進める最中の654年、真徳女王が亡くなっています。
在位7年目のことでした。
真徳女王に子供はおらず、今度は金春秋が王位に就きました。
まとめ
真徳女王の出生や王位に就いた理由は分かっていません。
反乱の混乱の中で擁立された真徳女王は、自身が政治を動かすことはありませんでした。
金春秋が政治の中心にいたことは間違いありません。
真徳女王は金庾信や金春秋が自由に国を動かすための一時的な盾だったのでしょうか。
残念ながら、今となっては真実を解明する手段はありません。