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大武神王(ムヒョル)の家系図【高句麗を拡大した朱豪の孫】

「風の国」のヒュルは、実在した高句麗の王・大武神王をモデルにしています。史実の大武神王とはどんな人物だったのか?

この記事では、大武神王の家系図をもとに、人物像、家族構成、その生涯を詳し解説します。

大武神王(ムヒュル)の家系図

大武神王(テムシンワン)は、高句麗を建国した朱豪(チュモン)の孫にあたります。父・第2代王・瑠璃明王(ユリ王)、母・松氏の三男として生まれました。

兄の都切(トジョル)と解明(ヘミョン)が早くに亡くなったため、三男でしたが王位を継いでいます。

「三国史記」をもとに整理すると、以下のような家系図になります。

三国史記に基づく大武神王の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<大武神王の家系図(三国史記に基づく)>

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大武神王(ムヒュル)はどんな王だったのか?

大武神王は建国されたばかりの高句麗で国の基礎を築いた王です。朝鮮王朝の太宗(李芳遠)が朝鮮の基礎を固めたように、大武神王も3代目として王権の強化、領土拡張に大きく貢献しました。

大武神王のプロフィール

「三国史記」には「生まれながらにして聡明、成人するにつれて才知にたけ、勇ましくなり、大きな計略があった」と記録されています。

<プロフィール>
諡号:大武神王(テムシンワン)
在位期間:18年-44年
姓:高
諱:無恤(ムヒュル)
生年:4年
没年:44年(享年40歳)
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大武神王(ムヒュル)の家族

大武神王には元妃と次妃の二人の王妃がいました。元妃とは政略結婚で第5代王・慕本王となる解愛婁(ヘエウ)が誕生し、次妃との間には好童(コドン)が生まれました。

好童は美しく王に寵愛されましたが、元妃の讒言によって自害を命じられたと伝えられています。

関係 名前 生年-没年 備考
瑠璃明王 BC37-18 第2代王
松氏 不詳
正室 元妃 不詳 政略結婚
長男 解愛婁 不詳-53 第5代王・慕本王
正室 次妃 不詳 曷思王の孫娘
次男 好童 不詳-32 自害
次男の妻 楽浪公主 不詳-32 楽浪国の崔理の娘

大武神王(ムヒュル)の生涯

大武神王は「戦争の神」と呼ばれるほど戦争を繰り返し、隣接国を次々と征服していきました。

幼少期から即位まで

後に大武神王となるムヒョル(無恤)は紀元4年、瑠璃明王と松氏の間に生まれました。

10歳で軍に参加して扶余軍を撃退。翌年には11歳で太子に冊封され軍事と政務を任されます。18年に父・瑠璃明王の死去を受け、わずか15歳で第3代高句麗王として即位しました。

周辺国を制圧し領土を拡大

紀元22年、大武神王は扶余へ侵攻し、宿敵・帯素王を討ち取りました。これは父ユリ王から続く悲願の達成でした。

帯素の末弟は逃れて曷思国を建てましたが、その孫・都頭王(次妃の兄)は後に国ごと高句麗に投降しています。さらに大武神王は、26年に蓋馬国を滅ぼし、32年には楽浪国を征服。次々と周辺国を制圧し、高句麗の領土を大きく拡張していきました。

大武神王の最後

44年9月、後漢の光武帝が出兵して楽浪郡を奪回されると、同年10月、大武神王は亡くなります。享年41歳でした。大獣林の原にて葬儀を行われ、大武神王の諡号が与えられています。

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ドラマ「風の国」と史実の違い

ドラマ「風の国」のムヒュルは、自らが王子であることを知らずに育ちます。後に「戦争の神」と呼ばれる王となりますが、宿命や愛、苦悩を抱えた人間味ある人物として描かれています。

一方、史実の大武神王は若くして即位し、冷静な判断力と政治力で高句麗の基盤を築いたドラマとは違う戦略家でした。

大武神王の史実について詳しくはこちら>>風の国の実話【戦争の神・ムヒョル(無恤)の生涯とは】

まとめ

実在した大武神王(ムヒュル)は、「戦争の神」と呼ばれるほど戦いに明け暮れ、領土拡大に尽力した王でしたが、同時に王権を強化し、高句麗の基盤を築いた王でもありました。

宿敵・帯素王を討ち、朱豪、ユリ王、ムヒュルの三代にわたる念願を達成したことで、700年以上続く高句麗の礎を確立したことは間違いありません。

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