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ユリ王(瑠璃明王)の家系図【息子のヘミョンを自決させた王】

朱豪の息子・ユリ王(瑠璃明王)とはどんな王だったのか?

家系図から詳しく調べてみました。

ユリ王の家系図

ユリ王(瑠璃明王)は朱豪(東明聖王)と最初の妃であった礼氏夫人との間に生まれました。

異母弟には朱豪と召西奴(ソソノ)の間の生まれた沸流(ピリュ)と温祚(オンジョ)がいます。

後に、温祚は召西奴と沸流と共に高句麗を離れ、百済を建国しています。

 

「三国史記」と「三国遺事」では少し家系図が異なります。

まずは、三国史記によるユリ王の家系図をご紹介します。

<三国史記によるユリ王の家系図>

五男の解色朱(ヘセクチュ)は第4代王・閔中王です。

「三国史記」では先代の大武神王の弟であり、大武神王の息子の解愛婁(第5代王・慕本王)が幼かったため、王に推挙されたと記録されています。

六男の再思(チュサ)の息子は第6代王・太祖大王となります。

しかし、その王名が「太祖」という国家の始祖的な諡号であることから、王統が断絶しないように別の血筋から瑠璃明王の系統に編入させたとする見解もあります。

 

次に三国遺事によるユリ王の家系図をご紹介します。

「三国遺事」では、閔中王は大武神王の子であり、第5代王・慕本王は閔中王の弟と記述されています。

<三国遺事によるユリ王の家系図>

 

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ユリ王はどんな王だったのか?

ユリ王(瑠璃明王)が即位した時期は、高句麗の周りは沸流國、鮮卑、扶余などの強国に囲まれ、内政も不安定な時期でした。

それにもかかわらず、ユリ王は大好きな狩りばかりしていました。

更に、そのことを諌めた重臣を罷免するなど、王としての資質に欠ける面があったようです。

 

ユリ王のプロフィール

高句麗第2代王
瑠璃明王(ユリミョンワン)
在位期間:BC19年-AD18年
都城:紇升骨城→国内城
姓:高
諱:類利(ユリ)または解儒留
諡号:瑠璃明王
生年:BC37年
没年:AD18年10月
享年:56歳
父:東明聖王
母:礼氏夫人

 

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ユリ王の呼び名(表記)

ユリ王(瑠璃明王)は史料の中で様々な名前で表記されています。

史料 表記
「三国史記」高句麗本紀 琉璃王、琉璃明王
「三国遺事」王暦 瑠璃王
「広開土王碑文」 儒留王
「魏書」高句麗伝 閭達(リョダル)

 

ユリ王の家族

ユリ王(瑠璃明王)は多勿の国王である松讓の二人の娘と結婚していたようです。

史料から6男1女の子供の名前を見つけることができます。

関係 名前 生年-没年 備考
正室 松氏 不詳-BC17 多勿の国王・松讓の娘
長男 都切(トジョル) BC17-AD1
継室 松氏 不詳 前妻の姉妹、第二王妃
次男 解明(ヘミョン) BC12-AD9 自決
長女 不詳 不詳 羽氏の妻
三男 無恤(ムヒュル) AD4-AD44 第3代王・大武神王
四男 如津(ヨジン) 不詳-AD18 溺死
五男 解色朱(ヘセクチュ) 不詳-AD48 第4代王・閔中王
継室 不詳 不詳 第三王妃、再思の母
六男 再思(チュサ) 不詳 息子が第6代王・太祖大王
継室 禾姫(ファヒ) 不詳 鶻川人の娘
雉姫(チヒ) 不詳 漢人の娘

 

ユリ王の生涯

朱豪の息子として生まれたユリ王には、多くのエピソードが残されています。

 

朱豪の息子の証(断剣説話)

BC37年、ユリ王(瑠璃明王)は朱豪の長男として生まれました。

しかし、ユリ王が生まれたときには、朱豪は母親の礼氏を扶余に置いて亡命していました。

そのため、幼少の頃には父親の顔を知りませんでした。

 

しかし、ある日、母親から朱豪のことを聞くと、ユリ王は屋智、句鄒、都祖の三人と共に卒本に行き、父親に会います。

このときに、朱豪の子供の証である剣の破片を見せたことはドラマにも取り上げられた有名な説話です。

この逸話のユリ王(瑠璃明王)の「剣」は、朱蒙(東明聖王)の「鼓角(太鼓と角笛)」、無恤(大武神王)の「鼎(かなえ)」と共に朝鮮神話の三種の神器と言われています。

 

義兄弟による百濟建国

ユリ王(瑠璃明王)には異母兄弟となる弟の沸流(ピリュ)と温祚(オンジョ)がいました。

しかし、朱豪はユリ王を太子としています。

ユリ王が太子になったことで、第二夫人となった召西奴は沸流と温祚をつれて高句麗を離れていきました。

温祚は後に、百濟を建国して初代王に就いています。

 

二人の側室の争い

ユリ王(瑠璃明王)は正室の松氏が亡くなると、二人の妃を側室として迎えています。

一人は鶻川人の女性で禾姬(ファヒ)、もう一人は漢人の女性で雉姬(チヒ)です。

二人は王の寵愛を巡って争い、とても仲が悪かったといいます。

ユリ王は涼谷に東宮と西宮の二つの宮を建てて、別々に住まわせたほどでした。

 

ある日、ユリ王が箕山に狩りに行き、7日間帰らなかったことがありました。

二人の妃は激しい喧嘩となり、禾姬が雉姬を罵倒して言いました。

「漢家の婢妾(めかけ)のくせに、何故そんなに無礼なのだ」

雉姬は恥うらやみ実家に帰ってしまったといいます。

 

戻ったユリ王はこれを聞き、馬で雉姬を追いましたが、雉姬の怒りは収まらず帰りませんでした。

ユリ王が自ら迎えに行くほど雉姬を寵愛していたのか、漢がユリ王にとって大事な隣国だったのかは、今となっては定かではありません。

 

大輔の陜父の罷免

3年10月、ユリ王(瑠璃明王)は卒本から国内城に遷都しています。

新たに都を移したので、民はまだ不安な状態であるにもかかわらず、ユリ王は狩りで宮殿を何日も空けることがありました。

 

重臣はこれを諌め、政務に集中するよう注意すると、ユリ王は激怒、この重臣を官職から罷免してしまいました。

その重臣とは、朱豪の家臣であった大輔の陜父(ヒョッポ)です。

陜父は怒ってユリ王のもとを去っていきました。

 

解明に自決を迫る

4年2月、解明(ヘミョン)を太子とし、全国で恩赦を行っています。

ユリ王(瑠璃明王)の説話の中で最も有名な話がこの解明太子を自決させた話です。

ドラマ「風の国」では、テソ王の暗殺に失敗したヘミョンがテソ王の前で自決していますが、これはフィクションです。

 

8年1月、太子の解明は力が強く、武勇を好んだといいます。

隣国の黃龍王はこれを聞き、使者を遣わして強い弓を贈りました。

しかし、解明は黃龍国が高句麗を軽視しないように、その弓を折って返答としました。

 

ユリ王はこれに激怒します。

黃龍王に自分の息子・解明を殺しても良いと伝えています。

黃龍王は殺害するために解明を自国に呼びますが、危害を加える勇気もなく、何事もなく送り返しました。

 

しかし、

「私は都を移し、国の基礎を固めて民を安心させようとしているのに、太子は私の政策に従わず、力を見せつけて隣国の恨みを買っている。太子の行いとしてあるまじき行為だ。」

ユリ王は解明に剣を送って自害を迫ります。

 

家臣が止めますが、解明はユリ王の決意の強さを知り、礪津の東原に行き、槍を地に挿して、馬を走らせその槍に飛び込んで死んだといいます。

享年21歳でした。

 

ユリ王が亡くなる

18年10月、ユリ王(瑠璃明王)は豆谷の離宮で亡くなりました。

そこで、三男の無恤(ムヒョル)が15歳で王位を継ぎ、第3代王・大武神王として即位しています。

 

まとめ

朱豪の息子として生まれたユリ王(瑠璃明王)が即位したときには、強力な敵国に囲まれ、高句麗はまだ内外部とも安定しない時期でした。

外交政策で隣国との和睦を進めるユリ王にとって、力でねじ伏せる太子・解明(ヘミョン)のやり方は息子といえども許せないものでした。

それが解明を自決へと追い込む結果となりました。

高句麗が力を付け周辺国を次々と征伐していくのは、ユリ王の息子・無恤(ムヒョル)の時代まで待つ必要がありました。

 

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