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恭譲王の家系図【しょせん中継ぎだった高麗最後の国王】

恭譲王は高麗王朝最後の王でした。

正統な王位継承者として担ぎ出されました。

恭譲王はどんな家系の出身なのか。

恭譲王の家系図を詳しく調べてみました。

 

恭譲王の家系図

恭譲王は第20代国王・神宗の血を引く七代孫の王族ですが、王位継承とは遠い位置にいました。

<恭譲王の家系図>

恭譲王の母・国大妃王氏も第25代忠烈王の血を引く王族の娘です。

兄の王瑀(定陽君)の娘は李成桂の七男・李芳蕃の正室でした。

<恭譲王の親族関係>

 

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恭譲王はどんな王だったのか?

李成桂は第33代王の昌王を正統な王位継承者ではないとして、廃位の上、流刑先で殺害してしまいます。

そして、息子・李芳蕃の妃・慶寧翁主の叔父にあたる定昌君(定昌府院君)を国王・恭譲王に祭り上げました。

高麗王朝最後の国王でした。

 

恭譲王のプロフィール

恭譲王(コンヤンワン)
第34代国王
即位前の称号:定昌君(定昌府院君)
生年:1345年2月5日
没年:1394年4月17日
享年:50歳
在位:1389年12月2日-1392年7月31日
諡号:恭譲大王
父:王鈞
母:国大妃王氏
王妃:順妃盧氏
陵墓:高陵

 

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恭譲王の家族

王妃の順妃盧氏は第26代王・忠宣王と妃・順妃許氏の四女・慶寧翁主の孫娘です。

関係 名前 生年-没年 備考
王鈞 不詳 定原府院君
国大妃王氏 不詳 延徳府院大君王塤の娘。
王瑀 不詳-1397 定陽君
王妃 順妃盧氏 不詳-1394 24代元宗の曾孫娘
長男 王奭 不詳-1394 殺害される
長女 粛寧宮主 不詳
次女 貞信宮主 不詳-1421
三女 敬和宮主 不詳

 

恭譲王の生涯

1345年、恭譲王は父・王鈞と母・国大妃王氏の次男として生まれました。

王族でしたが、王位とは程遠い位置にいました。

 

第34代国王として即位

1389年、昌王が正当な王位継承者でないとして廃位されると、第34代国王として即位させられます。

しかし、所詮、操り人形の王に過ぎませんでした。

 

恭譲王は即位すると、李成桂一派の圧力に屈して、流刑になっている禑王と王昌の父子を処刑するよう命じています。

鄭夢周を味方に付け李成桂に対抗しますが、恭譲王の時代は長くは続きませんでした。

 

後ろ盾の鄭夢周が殺害される

1392年、鄭夢周が李芳遠の刺客に開京の善竹橋で殺害されます。

鄭夢周が殺害されると、李成桂に対抗していた勢力は雪崩を打って崩れていきました。

李穡は流刑、鄭夢周一派は粛清されました。

 

恭譲王の最後

恭譲王は最後の手段として、李成桂と同盟を結ぼうとしました。

しかし、恭譲王の廃位を申し出る李成桂一派に、王大妃(定妃安氏)は遂に廃位の教旨を下しました。

1392年7月12日、恭譲王は廃位となり、原州に追放されています。

 

南誾が廃位の教旨を読み上げると、

恭譲王は
「余は本来、王になどなりたくなかったが、重臣たちが強引に余を王にした。余は不敏な性格で、事も知らないゆえ、どうして臣下の情(意見)に逆らえるだろうか。」と言って涙を流したと言います。

それから2年後の1394年、謀叛の計画があるとして、恭譲王は配流先の三陟(サムチョク)で息子の王奭とともに殺害されました。

 

高麗王朝の滅亡

李成桂は、高麗王室の一族の徹底排除を企て、流刑先に向かう高麗王室の一族が乗った船を沈めてしまいました。

王氏一族を渡し場から次々と海に突き落としたとも言われています。

これにより、34代475年続いた高麗王朝は完全に滅亡、朝鮮王朝が始まります。

 

その後も王氏末裔を消し去るため、徹底的に捜査が行われました。

現在、韓国に王氏が少ない理由は、このときに身を隠すために「王」の姓から似た姓の「玉」や「田」に変えたためだとも言われています。

 

まとめ

突然、政治の舞台に立たされた恭譲王に政治を司る能力はありませんでした。

特別な業績もなく表舞台から消えていきました。

しょせん、朝鮮王朝ができるまでの中継ぎの王にすぎなかったのです。

 

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