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黄喜の家系図【ファン・ヒは世宗の偉業を支えた実在した政治家】

黄喜(ファン・ヒ)は朝鮮で最も長く領議政を務めた政治家です。

太宗の時には苦言を呈して罷免となりましたが、世宗の偉業達成には大きく貢献しました。

黄喜とはどんな人物だったのか?

家系図からご紹介します。

黄喜の家系図

黄喜(ファン・ヒ)は、黄瓊を始祖とする長水黄氏一族の出身です。

始祖の黄瓊は新羅第56代王・敬順王の侍中を務め、長水君に封ぜられた人物です。

<黄喜の家系図>

曽祖父の黃石富は高麗で吏曹参議に追贈され、祖父の黃庇均は高麗で參贊を務めています。

父の黃郡西は、高麗の時には判江陵大都護府使を務め、朝鮮になってからは忠州節制使と都安撫使を歴任しました。

 

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黄喜はどんな人物だったのか?

黄喜は政治家としての資質を持ち、喜怒哀楽をあまり表に出さず、公正な態度で朝廷をリードする人物でした。

黄喜は原理原則を重んじ、常に一貫した姿勢を貫き通しました。

そのため、王に直接、苦言を言うことも多く、左遷、罷免、配流など数々の苦難を経験しています。

一方、家庭では人一倍倹約家で、雨漏りの家に住み、野菜を自家栽培するなど驚くほど質素な生活をしていたといいます。

 

黄喜のプロフィール

黄喜は幼い頃から聡明で、特に記憶力に優れ、一度見ればすぐに記憶するほど、暗記の才能に恵まれていました。

黄喜(ファン・ヒ)
初名:壽老
字:懼夫
号:厖村
諡号:翼成
生年:1363年
没年:1452年
享年:90歳
氏族:長水黄氏
父:黄君瑞
母:龍宮金氏(金佑の娘)

黄喜の家族

世宗実録で黃致身の父・黄喜は正室の子でないと記録されています。

しかし、黄喜の科拳合格後の出世を見ると、信憑性は低いと考えられます。

関係 名前 生年-没年 備考
黄君瑞 1328-1402 江陵府事
龍宮金氏 不詳-1427 監門衛護軍 金佑の娘
黄中粹 不詳
不詳 不詳
不詳 不詳
不詳 不詳

 

黄喜の妻子

黄喜(ファン・ヒ)は最初の妻(崔安の娘)を早くに亡くし、二番目の妻として楊震の娘を迎えています。

二番目の妻との間に3人の息子をもうけました。

関係 名前 生年-没年 備考
正室 崔氏 不詳- 1386 判事福祉事 崔安の娘
長女 黄氏 不詳
継室 楊氏 不詳- 1448 工曹典書 楊震の娘
長男 黄致身 不詳
次男 黄保身 不詳
三男 黄守身 不詳
次女 不詳 不詳

 

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黄喜の生涯

1363年、黄喜(ファン・ヒ)は高麗の判江陵大都護府使であった黄君瑞の息子として、開京の可助里に生まれました。

小さい頃から大変、聡明で記憶力の良い子供だったといいます。

 

修学の時代を経て、科拳に合格

1376年、蔭職で下級役人の福安宮録事に採用されました。

<豆知識>蔭職とは
蔭職とは、高官位の人が、自分の職位を子に世襲できる制度です。蔭敍、蔭補、門蔭、蔭仕とも表記されます。

1380年、崔安の娘と結婚して、1女をもうけましたが、最初の妻は7年後の1387年に亡くなっています。

 

その2年後の1389年、黄喜(ファン・ヒ)は工曹典書だった楊震の娘と再婚しました。

楊震の娘とは、崔致身、崔保身、崔守身の3男と1女をもうけています。

 

1383年、進士試験に合格した黄喜(ファン・ヒ)は、1390年に科挙に合格、官僚の道を歩き始めました。

最初は、成均館学院の士官になっています。

 

悲劇の杜門洞(トウムンドン)事件

1392年、高麗王朝が滅ぼされ、朝鮮が開国されると、朝鮮建国に反対した高麗の忠臣たちは新王朝への出仕を拒否して、杜門洞という村に立てこもりました。

李成桂は出仕するよう何度も要請しましたが、多くのものは応じませんでした。

黄喜(ファン・ヒ)は要請に応じて、杜門洞を出ていましたが、業を煮やした李成桂が村に火を放ちました。

 

予め、出口を用意していましたが、72人の人が焼け死んだといいます。(別説では100人以上)

この事件は黄喜(ファン・ヒ)に大きな心の傷を残しました。

 

朝鮮王朝の朝廷に出仕する

1394年、黄喜(ファン・ヒ)は李成桂の説得により、新王朝に出仕しました。

最初は、成均館の学官に就任、世子右正字を兼務しました。

その後は藝文春秋館、司憲監察、右拾遺、京畿道都使の職を歴任しています。

 

1400年から刑曹、礼曹、吏曹、兵曹などの正郎を務めました。

重要な官職を歴任していきましたが、1402年3月、父親が亡くなり、喪に伏すため3年間辞職することになりました。

しかし、喪が終わる前に、承樞府の官職に推薦されています。

 

知申事に大抜擢される

1405年12月6日、黄喜(ファン・ヒ)は朴錫命の推薦で、承政院知申事に大抜擢されます。

黄喜は5年間、王の間近で仕える知申事を務め、太宗から絶大なる信頼を得ることに成功します。

 

知申事の就任がキッカケとなり、黄喜は出世街道を駆け上がっていきました。

參知議政府事、刑曹判書、兵曹判書、礼曹判書、吏曹判書、議政府參贊、吏曹判書、工曹判書などの要職を歴任しました。

 

降格、左遷、流刑の苦しい時代

次々と出世していく黄喜(ファン・ヒ)でしたが、時々、王の気に障る苦言を呈したため、罷免されています。

しかし、讓寧大君の世子廃位に反対したときの太宗の怒りは尋常ではありませんでした。

黄喜は原理原則の信念に基づき、嫡長子継承の原則を強く主張したのです。

 

1417年2月、黄喜は平安道都巡問使兼平壤尹に降格されました。

1417年12月には刑曹判書に復帰しますが、翌年の1月には漢城府判事に左遷されています。

しかし、黄喜に対する弾劾はやみませんでした。

 

遂に、1418年5月、老いた母を奉養して暮らすという名目で黄喜は交河に流刑にされてしまいます。

その後、全羅道南原に移され、5年間の流配生活を送ることになりました。

 

流刑地から呼び戻され、官職に復帰

1422年2月12日、黄喜(ファン・ヒ)が南原から呼び戻され、官職に復帰しました。

その時は既に、太宗が譲位し、世宗が第4代王に就いていました。

 

1422年5月に太宗が亡くなると、黄喜は世宗の補佐として世宗の政治を支えていきます。

1423年に礼曹判書、1424年に贊成、1425年に議政府贊成事、1426年に吏曹判書と重要官職を歴任しました。

 

官僚のトップの23年間

1426年5月、黄喜(ファン・ヒ)は、遂に右議政に任命されます。

1427年には左議政、1431年には領議政に就任しています。

黄喜は1449年に職を辞すまで、右議政1年、左議政4年、領議政18年の23年間、議政府のトップとして活躍しました。

 

この間には、朴苞(パク・ポ)の妻と姦通した疑いを受けたり、事件に巻き込まれ罷免されることもありました。

しかし、黄喜の地位は揺らぐこと無く、領議政を朝鮮王朝で最長の18年間勤め上げています。

 

辞職そして死

1449年、黄喜(ファン・ヒ)は全ての職を辞すると、故郷に戻りました。

臨津江の江畔に小さな亭子を建て「畔鴎亭」と名付け、終生かもめを友として過ごしたといいます。

 

故郷に戻ってから3年後の1452年、黄喜は静かに息を引き取りました。

享年90歳でした。

 

黄喜の職歴一覧

黄喜(ファン・ヒ)は1389年に科拳に合格すると多くの官職を歴任しています。

職歴(及び出来事)
1390 成均館の学官になる
1392 李成桂が朝鮮を建国
(高麗王朝が滅ぼされると、朝鮮王朝への出仕を拒否する)
1394 説得され朝鮮王朝に出仕。成均館の学官に世子右正字を兼務する
藝文春秋館、司憲監察、右拾遺、京畿道都使の官職を歴任する
1400 刑曹・礼曹・吏曹・兵曹などの正郎を務める
1401 朴錫命の推薦で都評議使經歷になる
承樞府都事を経て、兵曹正郞になる
1402 右司諌大夫に就任する
1402 (3月、父親の喪でしばらく職を辞す)
3年の喪が終わる前に、承樞府の官職に推薦される
1404 右司諌大夫、左司諫大夫に任命される
1405 12月6日、朴錫命の推薦で、承政院知申事に大抜擢される
1408 (閔無恤などの横暴を排除する)
1409 8月10日、嘉靖大夫、參知議政府事に任命される
12月6日、刑曹判書(正2品)に任命される
1410 2月13日、知議政府事に任命される
7月6日、再び司憲府大司憲に任命される
1411 7月20日、兵曹判書に任命される
(8月29日、左軍摠制の河久と明に行く)
1413 4月7日、礼曹判書(正二品)に任命される
1414 (2月13日、礼曹判書で病気で辞職する)
6月12日、礼曹判書に復帰する
1415 5月17日、吏曹判書に任命される
11月7日、議政府參贊に任命される
12月28日、戶曹判書に任命される
1416 3月16日、吏曹判書に任命される
(世子讓寧大君の失行を擁護して罷職される)
11月2日、工曹判書(正二品)に復帰する
1417 2月22日、平安道都巡問使兼平壤尹(従二品)に降格される
12月3日、刑曹判書に任命される
1418 1月11日、漢城府判事に左遷される
(5月11日、讓寧大君の世子廃位に反対して太宗の怒りを買って交河に流刑にされる)
(5月28日、故郷に近い南原に移配される)
(9月9日、太宗が譲位して、世宗が王位に就く)
1422 (2月12日、黄喜が南原から呼び戻される。その後、職も戻される)
(5月10日、太宗が亡くなる)
1423 5月27日、礼曹判書に任命される
7月16日、江原道都觀察使に任命される
12月11日、判右軍都摠制府事に任命される
1424 6月20日、贊成に任命される
1425 3月1日、兼大司憲に任命される
5月21日、議政府贊成事に任命される
1426 2月10日、吏曹判書に任命される
5月13日、右議政に任命される。64歳
1427 左議政に任命される
1428 (人を殴って殺した婿’徐達を放免して罷免される。1ヶ月後に復帰)
(朴苞(パク・ポ)の妻と姦通した疑いを受ける)
1430 (済州監牧観太石鈞の減刑を求めたことで弾劾を受け罷職される)
1431 復職して領議政府事になる
1431 領議政に就任する
1449 (職を辞す)
1450 (2月17日、世宗が逝去する)
1452 黄喜が亡くなる

 

まとめ

黄喜(ファン・ヒ)は揺るぎない政治信念を持った政治家でした。

そのため、度々、太宗の怒りに触れ罷免や流刑の苦難を味わいました。

 

それでも、原理原則を貫き通した黄喜は、世宗の時代には補佐役として世宗の多くの偉業に最大限の貢献しています。

87歳まで朝廷のトップを務めた黄喜は、職を辞すると故郷で静かな晩年を過ごしました。

黄喜が朝鮮王朝で最も優良な官僚の一人であることは間違いありません。

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