高句麗を建国したチュモンは神話的な存在として語り継がれていますが、チュモンの家系は朝鮮半島の歴史に大きな影響を与えました。
神話と史実が交錯する彼の生涯と家族の物語を家系図を紐解きながらご紹介していきます。
チュモンの家系図
チュモン(朱豪)は高句麗の初代国王で、諡号(しごう)は東明聖王(トンミョンソンワン)です。
<チュモンの家系図>
チュモンの祖父・解夫婁(ヘプル)は扶余(プヨ)の有力豪族でしたが、臣下の進言で都を東に移して東扶余と名付け、初代国王・解夫婁王(ヘプルワン)となっています。
そして、解夫婁王の息子がチュモンの父親となる金蛙(クムワ)です。
解夫婁(ヘプル)が亡くなると、金蛙(クムワ)が東扶余の第2代国王・金蛙王(クムワワン)として後を継いでいます。
チュモンのプロフィール
ドラマの影響で朱蒙(チュモン)の名前が有名ですが、王としての正式な名前(諡号)は東明聖王(トンミョンソンワン)または、東明王です。
高句麗初代王
在位期間:BC37年2月-BC19年9月
姓:高
諱:朱蒙
諡号:東明聖王
生年:BC58年4月
没年:BC19年9月
享年:40歳
父:金蛙王
母:柳花夫人
王后:礼氏夫人
召西奴
子女:瑠璃明王
陵墓:東明王陵
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チュモンの家族
チュモンの妻には東扶余で結婚した礼氏夫人と高句麗で結婚した召西奴(ソ・ソノ)がいました。
チュモンの家族構成
妻 | 子供 | 備考 | |
正室 | 礼氏夫人 | 瑠璃(ユリ) | 第2代高句麗王 |
側室 | 召西奴 | 沸流(ピリュ) | 百済の初代王 |
温祚(オンジョ) |
礼氏夫人の子・瑠璃(ユリ)は、チュモンが東扶余を出た後に生まれた子供で、チュモンは瑠璃の存在を知りませんでした。
召西奴の二人の息子は亡き夫・優台(ウテ)との間にできた子供でした。
高句麗と百済の建国に貢献した召西奴
高句麗建国に貢献した召西奴はチュモンの王妃となりましたが、突然、瑠璃が現れ、状況は一変しました。
チュモンは瑠璃を後継者とし、礼氏を第1夫人、王妃だった召西奴を第2夫人としました。
深く傷ついた召西奴は二人の息子を連れて高句麗を離れ、次男の溫祚とともに、後に三国時代に三強の一角となる百済を建国ています。
このため、今日の歴史家は召西奴のことを「高句麗と百済の二つの国を建国した女傑」と激賞しています。
召西奴について詳しくは>>召西奴(ソソノ)は実在した【高句麗と百済の建国を支えた女傑】を参照ください。
後に、三国時代の二つの強国となる高句麗と百済を生み出したチュモンの家系ですが、その出発点となるチュモンはどのように生まれ、育ったのか、チュモンの生涯を追って見ました。
【PR】スポンサーリンクチュモンの生涯
高句麗建国に関する考古学的証拠や歴史資料については、伝承や神話的要素が多く、正史とされる「三国史記」でさえ神話として描かれています。
多分に神話的なチュモンの生涯ですが、できる限り現実的な生涯にまとめてみました。
チュモンが扶余で生まれる
子供のいなかった祖父の解夫婁王は金蛙(クムワ)を養子として後を継がせました。
第2代国王・金蛙は、経緯は分かりませんが、解慕漱(ヘモス)の子を身ごもった柳花(ユファ)を妃として迎えます。
そして、紀元前58年に生まれた子供をチュモン(朱豪)と名付けて、自分の子供として育てました。
解慕漱は扶余の北部に現れ、北扶余という国を建国した王でした。
この当時、扶余の周囲にはさまざまな小国や部族国家が存在しており、相互に争ったり、連携を図ったりする状況にあり、扶余も分裂して「東扶余」と「北扶余」に分かれています。
チュモンの亡命と高句麗の建国
チュモンは子供の頃から聡明で武芸に長け、特に弓の才能に優れていました。
長男の帯素(テソ)を始めとする金蛙王の7人の王子はチュモンの才能を恐れ、殺害しようとしました。
これを知った柳花はチュモンに亡命することを勧めます。
紀元前37年、チュモンは烏伊(オイ)、摩利(マリ)、陝父(ヒョッポ)をつれて亡命することを決意、卒本(チョルボン)の地に至り、高句麗を建国しました。
このとき、母親の柳花と最初の妃である礼氏は扶余に残していきました。
柳花は紀元前24年に亡くなっています。
高句麗の拡大と歴史意義
当初、高句麗は小さな部族国家でしたが、チュモンは軍事的才能とカリスマ性を持って周囲の小国家を次々と服従させていきました。
高句麗はその後も軍事力と政治力を駆使して周辺の国々を征服して、東部沿岸に至る大国家へと成長しました。
この高句麗の成長は当時、中国を支配していた漢帝国に対抗できる国として、その存在は大きな意義がありました。
また、高句麗は後に朝鮮三国時代の中心的勢力の一つとして、政治・経済・文化の面において大きな歴史的役割を果たしています。
瑠璃(ユリ)の出現と逝去
紀元前19年4月、扶余に残した礼氏に生まれていた瑠璃(ユリ)がチュモンを訪ねてきました。
チュモンは喜び、瑠璃を太子にしますが、その5ヶ月後の9月にチュモンは亡くなっています。
享年40歳でした。
その後、瑠璃はチュモンを継いで、高句麗第2代王となり、高句麗の発展と拡大に死力を尽くしています。
まとめ
チュモンの歴史は神話と史実の境界が非常に曖昧です。
しかし、彼の家系図を紐解くことは、高句麗建国の背景を現実的に理解する一助になります。
事実、彼の家族は朝鮮半島の歴史に大きな影響を与えました。
今後も新しい発見があれば追記しますが、この記事がドラマや歴史に興味を持つきっかけになれば幸いです。