明宗は母・文定王后の強大な権力の下で思うように政務を行えず、「悲運の王」と呼ばれました。
この記事では、明宗の家系図をもとに中宗から宣祖へと続く複雑な血筋、彼の人物像、家族構成、そして乙巳士禍に象徴される波乱の生涯を詳しく解説します。
明宗の家系図
明宗は仁宗の後を継いだ第13代国王で、中宗と3番目の妃・文定王后の間に生まれた直系の王子です。実子である順懐世子を13歳で失い、後継者に恵まれなかったため、王統は中宗の息子である徳興君の三男・河城君(後の宣祖)を養子に迎える形で継承されました。明宗の直系はここで途絶えることになります。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<明宗の家系図>
母・文定王后は名門・坡平尹氏の出身であり、王妃の仁順王后は高官を多く輩出した名門・青松沈氏の出身でした。
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明宗はわずか12歳で即位したため、政治の実権は母である文定王后が握りました。母の意向に逆らえなかった明宗は、長きにわたり「お飾りの王」の状態に置かれてしまいます。
文定王后が亡くなり、尹元衡は失脚しますが、その2年後には明宗も亡くなってしまいます。そのため、明宗は最後まで王らしい仕事をすることなく生涯を終えています。
明宗のプロフィール
生年:1534年5月22日
没年:1567年6月28日(享年34歳)
在位:1545年8月8日-1567年8月3日
君号:慶源大君
字:對陽(テヤン)
諱:峘(ファン)
廟号:明宗
明宗の結婚と大君に冊封
1544年、世子だった峘(明宗)は沈鋼の娘(仁順王后)と結婚します。明宗11歳、仁順王后13歳でした。実録には次のように記されています。
傳于政院曰: “以幼學沈鋼【刑曹參判沈連源子。】女, 爲慶原大君夫人事, 奉承傳。<中宗実録:1542年11月19日>
1544年11月、中宗が逝去すると、仁宗が即位。母・文定王后が王大妃となりました。峘(明宗)は慶源大君として冊封されます。
明宗の家族|断絶した直系の血筋
明宗は正室の仁順王后との間に、待望の長男を授かりましたが、側室を含めても子に恵まれませんでした。
| 関係 | 称号 | 子供 | 生年-没年 | 備考 |
| 正室 | 仁順王后 | 1男 | 1532-1575 | 沈鋼の娘 |
| (長男) | 順懐世子 | ー | 1551-1563 | 李暊 |
| 側室 | 慶嬪李氏 | 子女なし | 1541-1595 | 李添貞の娘 |
| 昭儀申氏 | 子女なし | 1533-1565 | 申彦淑の娘 |
明宗の兄弟姉妹
中宗が多くの側室をもったため、明宗には多くの義兄弟がいます。先代の王・仁宗もその一人です。文定王后から生まれた実の兄弟姉妹は1男4女で明宗が唯一の男子でした。
<明宗の実の兄弟姉妹>
| 関係 | 称号 | 名前 | 生年-没年 |
| 姉 | 懿恵公主 | 李玉蘭 | 1521-1564 |
| 姉 | 孝順公主 | 李玉蓮 | 1522-1538 |
| 姉 | 敬顕公主 | 李玉賢 | 1530-1584 |
| 妹 | 仁順公主 | 不詳 | 1542-1545 |
明宗の即位と混乱
王となった仁宗ですが、僅か8ヶ月後に亡くなります。あまりにも早い崩御のため、文定王后の毒殺説もささやかれるほどでした。
1545年7月、亡くなった仁宗に代わって、12歳の明宗が第13代国王として即位しました。しかし、明宗が幼かったため、母の文定王后が垂簾聴政(代理政務)を行いました。
即位直後の混乱|乙巳士禍(1545年)
明宗の即位直後、母・文定王后の弟である尹元衡(ユン・ウォニョン)を中心とする外戚勢力が、前王・仁宗の側近を粛清する乙巳士禍(ウルササファ)を引き起こしました。
この事件により、文定王后と尹元衡一族が朝廷の権力を独占し、外戚による政治の私物化が進むこととなり、明宗の王権は弱体化の一途を辿りました。
明宗の晩年|親政と突然の死、そして王位継承
長きにわたる文定王后の支配から解放された明宗でしたが、親政期間は長く続きませんでした。
文定大妃の逝去と尹元衡の失脚
1565年、ついに文定大妃が亡くなります。これを機に、明宗は尹元衡の官職を剥奪し朝廷から追放します。後ろ盾を失った坡平尹氏一族は衰退し、尹元衡とその妻である鄭蘭貞 (チョン・ナンジョン)は自決に追い込まれました。
王位は宣祖へ|直系の断絶
文定大妃の死からわずか2年後の1567年、明宗は34歳という若さで病没しました。
すでに実子を失っていたため、中宗の息子である徳興君の三男・河城君が養子として迎えられ、第14代王・宣祖として即位しました。
このとき宣祖は15歳で、大妃となった仁順王后が再び垂簾聴政を行い、政務を補佐することとなります。

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<宣祖の王位継承>
まとめ
明宗は最後まで王でありながら実権を持てず、文定王后の影に隠れて過ごした「悲運の王」でした。家系図からわかるように、彼の代で直系は断絶。宣祖へと王位は継承されました。
そして、乙巳士禍を機に朝鮮王朝は「繰り返す派閥党争」と「王権弱体化」の時代へと突入していきます。