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【図解】中宗の家系図【燕山君とは義兄弟だった中宗】

燕山君を倒して王になった中宗ですが、燕山君と中宗は義兄弟でした。

義理の兄である燕山君に対する謀反(中宗反正)は誰がどのように起こしたのか?

中宗の家系図から図解で詳しく説明していきます。

 

中宗の家系図

中宗は第9代王・成宗の3番目の正室の息子で、成宗の次男にあたります。

燕山君は中宗の腹違いの義理の兄です。

<中宗の家系図>

 

家系図から見る中宗反正の背景

中宗反正を起こした主要な人物は成希顔(ソン・ヒアン)と朴元宗(パク・ウォンジョン)です。

<中宗反正の説明図>

成希顔は成宗の信頼を得て刑曹参判(従二品)までなりましたが、燕山君を批判したために左遷されてしまいました。

品階も従二品から最下位の従九品に降格させられています。

 

朴元宗は国の財政を担当していましたが、燕山君を諫言したために左遷されて、最後は官職まで剥奪されてしまいました。

さらに、朴元宗の姉は成宗の兄(月山大君)の妻でしたが、燕山君に辱められて自害しています。

 

クーデターは燕山君の数々の暴挙に対するものですが、成希顔と朴元宗の個人的な恨みが根本にあったのです。

成希顔と朴元宗が晋城大君(中宗)を担いで起こしたクーデターを中宗反正と呼んでいます。

武臣の出身の朴元宗にはクーデターを起こすだけの兵力を動員できる力(人脈)がありました。

 

反乱軍が宮殿に到着すると宮殿の兵士は逃げ出してしまい、簡単に宮殿は征圧されたと言われています。

既に兵士たちの燕山君に対する忠誠心はほとんど無かったのです。

 

中宗反正の結末

クーデターが成功すると朴元宗は貞顕王后(大妃)のもとに行き、晋城大君を王に推挙することを告げました。

晋城大君の生母である貞顕王后は断る理由もなく、王位に興味のなかった晋城大君(中宗)が王に即位することになります。

 

中宗はこのクーデターに直接関与することはありませんでした。

晋城大君は燕山君がいつ自分が王位を狙っていると思われないかビクビクしながら、身を隠すようにひっそりと暮らしていました。

そのため、クーデターが成功して兵士が中宗の家の周りに集まると、燕山君が自分を殺しに来たと勘違いしたほどでした。

 

このクーデターで燕山君は捕まり江華島に流刑、燕山君の王妃は廃位されました。

さらに、燕山君の王子は全て処刑、王女は全て奴婢にされてしまいます。

 

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端敬王后の7日の王妃

中宗の妻の端敬王后が7日で廃位された話は「7日の王妃」として有名です。

その理由は、先の家系図を見ると明らかです。

端敬王后は燕山君の王妃の兄である慎守勤(シンスグン)の娘でした。

 

自分の妹が燕山君と結婚したため、慎守勤は燕山君の義理の兄になりました。

慎守勤は燕山君の義理の兄になると、朝廷で破格の出世をして右議政(正一品)、左議政(正一品)を歴任します。

 

端敬王后の父親の慎守勤は燕山君の義理の兄であり、燕山君の側近中の側近だったのです。

従って、端敬王后は中宗が即位すると王妃になりますが、朴元宗らの反対でたった7日で廃位されてしまいます。

燕山君と深い関係にある一族出身の端敬王后が王妃でいることはできませんでした。

中宗は嘆き悲しみますが、二人は二度と会うことはありませんでした。

 

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中宗はどんな王だったのか?

朝鮮王朝において、臣下が王を替えたのは中宗反正が初めてのことでした。

従って、中宗は臣下には頭が上がりませんでした。

その結果、歴史上、中宗は決断力に欠け、政局を混乱させた優柔不断の王として評価されています。

 

中宗のプロフィール

第11代国王
生年:1488年4月16日
没年:1544年11月29日
在位期間:1506年9月18日-1544年11月28日
姓・諱:李懌(イ・ヨク)
父:成宗
母:貞顕王后
后妃:端敬王后
章敬王后
文定王后
陵墓:靖陵

 

中宗の家族

中宗は3人の正室と9人の側室に10男11女の子供を授かりました。

第11代国王・中宗
正室 端敬王后 子女なし
章敬王后 1男1女 仁宗(李峼) 12代王・仁宗
孝恵公主
文定王后 1男4女 慶原大君(李峘) 13代王・明宗
懿恵公主
孝順公主
敬顕公主
仁順公主
側室 敬嬪朴氏 1男2女 福城君(李嵋)
恵順翁主
恵静翁主
熙嬪洪氏 2男 錦原君(李岭)
鳳城君(李岏)
昌嬪安氏 2男1女 永陽君(李岠)
徳興君(李岹) 14代王・宣祖の父
静慎翁主
淑儀洪氏 1男 海安君(李㟓)
貴人韓氏 1男 王子 夭折
淑儀李氏 1男 徳陽君(李岐)
淑儀羅氏 子女なし
淑媛李氏 2女 貞順翁主
孝静翁主
淑媛金氏 1女 淑静翁主

 

中宗の最後

中宗は38年2ヶ月在位した後、1544年11月28日に55歳で長男の仁宗に譲位しました。

そして、その翌日に中宗は56歳で死去しています。

 

まとめ

中宗は燕山君とは腹違いの義兄弟でした。

中宗は王になる意志はまったくなかったのに、燕山君に恨みをもつ臣下によって担ぎ出されて王位につきました。

そのため、臣下には逆らえず、臣下に言いなりにならざるを得なかったのでしょう。

暴君の燕山君を倒したにも関わらず、歴史上、中宗が決断力のない優柔不断な王と評価されるのはこのためです。

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