ホジュン(許浚)は、朝鮮王朝時代に実在した名医ですが、その出生や家系には多くの謎が残されています。
この記事では、家系図をもとに、後世の族譜だけでなく、『内医院先生案』や『眉巖日記』などの史料も検証し、ホジュンの家系や家族、出生地などを詳しく解説します。
ホジュンの家系図
ホジュン(許浚)は、後三国時代に高麗太祖・王建に軍糧を提供して功績を挙げた許宣文(ホ・ソンムン)を始祖とする陽川許氏の出身です。
祖父の許琨(ホ・クン)は慶尚右水使を務め、父の許崙(ホ・ロン)も平安道・龍川府使の要職を務めました。このように、ホジュンは武官の家系に生まれました。
※許崙の名前が「許碖」「許論」「許磮」などと記載される場合がありますが、ここでは「許崙」に統一しています。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<ホジュンの家系図>
一方、母は霊光金氏の出身で、金郁瑊の側室から生まれた娘でした。金郁瑊と正室の間には、母の異母兄にあたる金時洽がいましたが、金時洽は、後にホジュンを内医院に推薦することになる柳希春と親交がありました。
また、ホジュンの父方をたどると、儒学者の金安国との親族関係も見えてきます。金安国は曾祖父・許芝の孫でホジュンの親族であり、柳希春の師でもありました。
家系図を通して、こうした親族関係や人脈をたどると、後にホジュンに影響を及ぼした家系や人間関係が見えてきます。ホジュンは庶子でしたが、武官や儒学者を輩出した家系につながりがあり、学問や医学を学ぶ環境にも恵まれていたと考えられます。
金安国(1478〜1543):礼曹判書、大司憲、大提学などを歴任した文官。医書の編纂にも関わるなど医学にも詳しく、柳希春の師としても知られます。
柳希春(1513〜1577):成均館、芸文館、世子侍講院、弘文館などで官職を歴任した文官。『眉巖日記』を残し、ホジュンを内医院に推薦した人物として知られます。
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許崙には二人の側室がいたとされます。そのうちの一人がホジュンの母・霊光金氏です。母・霊光金氏は、地方の両班・金郁瑊の庶女でした。
韓国学中央研究院の『韓国民族文化大百科』は、ホジュンについて、武官の家柄に生まれ、母が正室ではなかったため中人とされたと説明しています。
ホジュンには、正室・海平尹氏から生まれた異母兄・許沃(ホ・オク)と、母を同じくする同母弟・許澂(ホ・ジン)がいました。
| 関係 | 名前 | 子女 | 名前 |
| 正室 | 海平尹氏 | 1男2女 | 長男:許沃 |
| 長女:権光澤の妻 | |||
| 次女:孫昱の妻 | |||
| 側室 | 霊光金氏 | 2男 | 次男:許浚 |
| 三男:許澂 | |||
| 一直孫氏 | 記録なし |
ホジュンの妻は安東金氏
小説やドラマでは、ホジュン(許浚)の夫人は全州李氏のイ・ダヒとして描かれています。
しかし、陽川許氏の族譜によると、ホジュンの夫人は安東金氏と記されており、「イ・ダヒ」という名前は創作と考えられます。
安東金氏は朝鮮時代の名門氏族であり、史実においてもホジュンの妻は両班の家系の出身でした。
ホジュンの妻について詳しくはこちら>>ホジュンの妻ダヒは最後どうなったのか?【史実を徹底調査】
ホジュンの息子・許謙
ホジュンには一人息子の許謙(ホ・ギョム)がいましたが、彼は医官の道には進まず、文官となりました。
後に清州韓氏と結婚し、坡州で牧使を務めたと記録されています。牧使は地方を管轄する地方官で、正三品堂下にあたる官職です。
【PR】スポンサーリンクホジュンの母は霊光金氏|諸説から検証
ホジュン(許浚)の母に関しては諸説あります。陽川許氏の族譜で、側室は孫氏と記載されていたことから、一時期、ホジュンの母は一直孫氏とされたときもありました。しかし、後年、子孫である許東と許重書らによって密陽孫氏であるとされ、陽川許氏大宗会でも公式見解としてこれを受け入れられました。
ところが、歴代御医の人事事項が記された『内医院先生案』に、これまでの説を見直す重要な記録が発見されます。
それは、ホジュンの欄に記された次のような内容でした。
ここで注目すべき点は「外祖靈光金郁瑊」で、「母方の祖父は霊光(本貫)の金郁瑊」と記されていることです。つまり、ホジュンの母は孫氏ではなくて、金氏であることを示しています。『内医院先生案』は1605年に書かれたもので、ホジュン自身が序文を書いていることから信頼性の高いものとされています。
さらに、『眉岩日記』には、次のように金時洽(霊光金氏)がホジュンの叔父であると記録されています。
金時洽 孝子副正金有誠之孫 而許浚嫡三寸叔父也
<眉岩日記:己巳年(1569年)12月1日>
こうした記録から、ホジュンの母は霊光金氏と見るのが妥当と考えます。ドラマではホジュンの母は身分の低い賤民と設定されていますが、実際には両班の家の庶女であったことが分かります。
ホジュンの出生地
ホジュン(許浚)の出生地には、京畿道陽川説や京畿道坡州説がありますが、陽川で生まれたとする説が有力です。
その根拠の一つが、本貫が「陽川」であることです。また、陽川許氏大宗会もホジュンを陽川出身としています。さらに、孫弘烈や金元泰らが記した石碑や資料にも、ホジュンの出身地を陽川とする記述があります。また、陽川は古くから斉次巴衣、陽平、孔巖、巴陵などの地名で呼ばれており、ホジュンが「陽平君」、息子の許謙が「巴陵君」という君号を受けていることも、陽川説の根拠の一つとされています。
一方、京畿道坡州説は、ホジュンの墓が坡州にあることや、墓所を居住地から1日圏内にする慣例などが根拠とされています。しかし、ホジュンの息子・許謙が坡州牧使を務めていることから、相避制度との関係を考えると、ホジュンの出生地を坡州とする説には疑問が残ります。
※当時は相避制度により、地方官は原則として本人の出身地など、一定の関係がある地域には任命されませんでした。
ホジュンの出生地については、いまだ明確な結論は出ておらず、議論が続いているのが現状です。
ホジュンの出生年度
ホジュン(許浚)の出生年度は、1537年説、1539年説、1546年説などが知られていますが、現在、最も有力な出生年度は「1537年」とされています。
これは、ホジュン自身が序文を書いた『内医院先生案』に記載されている次の文によります。
許浚 淸源 丁酉 陽川人
<訳>許浚、字は清源、丁酉生(1537年生まれ)、陽川人
<引用元:内医院先生案>
『内医院先生案』以外にも、『太平院先生案』や『教誨・内医・計士先生案』など、王室医官の名簿と人事事項を記した史料に、いずれもホジュンが丁酉(1537年)生まれであることが記されています。複数の史料で出生年が一致していることから、ホジュンは1537年生まれと見るのが現時点では最も妥当であると考えられています。
1539年説は、文禄・慶長の役の功臣を描いた『太平会盟図屏風』の細注に記載された、次の文が根拠となっています。
忠勤貞亮扈聖功臣崇祿大夫陽平君許浚 清源 己亥生 本陽川
<訳>忠勤貞亮扈聖功臣(忠実で清廉な、国王を護衛した功臣)、崇禄大夫(従一品の官位)、陽平君の許浚。本貫は陽川で、字は清源、己亥年(1539年)生まれ。
<引用元:太平会盟図屏風の細注>
『太平会盟図屏風』の細注には己亥生まれと記されていますが、『内医院先生案』『太平院先生案』『教誨・内医・計士先生案』の3つの史料はいずれも丁酉生まれと記されていること、さらに、『内医院先生案』の序文をホジュン自身が書いていることから、現在では1537年説を支持する見方が最も有力です。
一方、1546年説は後代の族譜や小説・伝記などに基づくもので、根拠に乏しい説とされています。
ホジュンのプロフィール
名前:許浚(ホジュン)
生年:1537年(諸説あり)
没年:1615年
出生地:京畿道陽川(諸説あり)
本貫:陽川許氏
字:清源
号:亀巌(クアム)
お墓:京畿道坡州市
まとめ
ホジュン(許浚)は王室の医療を支え、『東医宝鑑』など後世に残る功績を残した人物でした。しかし、その生い立ちや家族に関しては、未だ多くの謎が残されています。そのため、小説やドラマによって作られた「賤民出身の御医」といったイメージが先行し、ホジュンの正確な実像が伝わっていない面もあります。
一方で、近年の研究や史料の検討によって、ホジュンの家系や生い立ちについても少しずつ明らかになっています。こうした研究成果をもとにホジュンの史実や家系図をたどると、ホジュンは陽川許氏の家系に生まれ、庶子という立場にありながら、医術の才能を発揮し、周囲からの協力を受けながら、朝鮮王朝を代表する医官へと上り詰めた人物だったことが分かってきました。
今後の研究や新たな史料の発見によって、ホジュンの実像がさらに明らかになることが期待されます。