ホ・ジュン(許浚)は実在した朝鮮王朝時代の名医であり、医学書「東医宝鑑」を著したことで知られています。
この記事では、ホ・ジュンの家系図を中心に、彼の家族、時代背景、生涯についてわかりやすく解説します。
ホジュン(許浚)の家系図
ホジュンは許宣文を始祖とする陽川許氏の出身です。
許宣文は高麗建国の功臣で、その子孫の陽川許氏は朝鮮時代に十大氏族に数えられる名門中の名門氏族でした。

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図
<ホジュンの家系図>
しかし、彼は妾の子(庶子)であり、1700年に作成された族譜「陽川許氏族譜」には、ホジュンの名は記録されていませんでした。
1750年の族譜にようやく「許浚(ホジュン)」の名前が、「庶子」の文字とともに記録されています。
医術の功績により正一品となり、両班の身分を獲得したにもかかわらず、この扱いは、当時の身分制度が非常に厳しかったことを意味しています。
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ホジュンは父の許碖(ホ・ロン)と妾の霊光金氏との間に生まれています。
ドラマでは母親は元キーセンでしたが、詳しいことは分かっていません。
関係 | 名前 | 子供 | |
父 | 許碖 | ||
正室 | 不詳 | 1男2女 | 長男:ホ・オク |
長女、次女は不詳 | |||
側室 | 霊光金氏 | 2男 | 次男:ホジュン |
三男:ホ・ジン |
また、ホジュンには3人兄弟でしたが、兄のオ・ホク(許沃)は正妻の子供、ホジュンと弟のホジンは妾の子供でした。
【PR】スポンサーリンクホジュンの両親|本当に妾の子だったのか?
ホジュンの父親が武官であったことは間違いありませんが、母親についての確かな記録はありません。
ホジュンの父親|守令を歴任した武官
ホジュンの父親・許碖(ホ・ロン)は守令(地方官)を歴任した武官でした。最後は龍川(リョンチョン)で龍川府使を務めています。
祖父の許琨(ホ・ゴン)も武官であり、ホジュンは代々、武官の家庭に生まれました。
ホジュンの母親|出身が謎の妾
家系図にホジュンが庶子として記録されていることから、母親は妾(側室)であったことは間違いありません。
名前が孫氏と記録されていることから、一直孫氏または、密陽孫氏などの説があります。
しかし、現在、最も有力な説は、霊光金氏という説です。これは、ホジュンが働いていた内医院の名簿に母方の曽祖父が霊光金郁と記載されているからです。
また、父親が全羅道扶安の郡守だったときに妾との間にホジュンが生まれたとの説があり、ドラマはこの説を採用していると考えられます。
ホジュンの妻子|妻は両班だったのか?
史実でも、ホジュンが御医になり、息子のギョムは奴婢の身分から解放されています。
ホジュンの妻|名門両班の娘
ホジュンの妻であるイ・ダヒは架空の人物です。家系図ではホジュンの妻は安東金氏(アンドンキムシ)と記載されています。
安東金氏は朝鮮では名門中の名門の家系であり、彼女が両班の娘であったことは間違いないようです。
ホジュンの子供|文官になった息子
ホジュンには一人息子の許謙(ホ・ギョム)がいましたが、彼は、医官の道には進まずに文官となりました。後に、清州韓氏と結婚したと記録されています。
彼は坡州(パジュ)、今の京畿道北西部で牧使(モクサ)を務めました。牧使は地方を管轄する地方官で正三品堂下の上級地方文官職です。
ホジュンの生まれた場所
最も有力な説は、本貫が「陽川」であることから、京畿道陽川(ソウル市江西区)辺りで生まれたという説です。現在、そこには、ホ・ジュン博物館が建てられています。
京畿道陽川以外の説としては、陽川許氏の集落のあった京畿道長湍郡(京畿道坡州市)、父親が郡守だった全羅道扶安などの説があります。
ドラマ「ホジュン」と史実の違い
ドラマでは、ホジュンの生涯をフィクションを交えて描いています。ドラマに登場する人物の中には創作キャラクターも含まれていますが、彼の志や医師としての信念は史実に基づいています。
史実について詳しくはこちら>>ホジュンの実話【史実で知る朝鮮三大名医の真実の行跡】
ホジュンの生きた時代背景と生涯
ホ・ジュンは16世紀後半から17世紀初頭の宣祖の時代に官医として活躍しました。
壬辰倭乱などの戦乱で荒廃した時代でしたが、ホ・ジュンはその中でも国の医学の発展に貢献しています。
ホジュンの生涯を一覧でご紹介します。
年月 | 出来事 |
1539年 | 父・許碖(ホ・ロン)と妾の間に生まれる |
1568年 | 柳希春(ユ・ヒチュン)の推薦で内医院に入る |
1571年 | 内医院僉正(従四品相当)に任官 |
1573年 | 通訓大夫(正三品堂下相当)に昇級 |
内医院正(正三品堂下相当)に転任 | |
1575年 | 御医の安光翼(アングァンイク)と宣祖を診断 |
1587年 | 宣祖の治療に参加、褒美をもらう |
1590年 | 世子(光海君)の天然痘を治療する |
通政大夫(正三品堂上相当)に昇級 | |
1592年 | 壬辰倭乱で王に追従して義州へ |
1596年 | 光海君の病を治療 |
正憲大夫(正二品相当)に昇級 | |
知中枢府事(正二品相当)に転任 | |
宣祖が朝鮮独自の医学書を編纂するよう命じる(東医宝鑑) | |
1600年 | 内医院御医(正三品堂上相当)になる |
1604年 | 忠勤貞亮扈聖功臣3等の論功を受る |
1606年 | 陽平君(ヤンピョングン)に封じられる |
1608年 | 宣祖が逝去、責任を取り流刑にされる |
1609年 | 赦免により、内医院に復帰 |
1610年 | 朝鮮第一の医学書「東医宝鑑」を完成させる |
1615年 | 8月17日逝去、享年77歳 |
輔国崇禄大夫(正一品相当)を贈位 | |
陽平府院君に封ぜられる |
まとめ
ホジュンは庶子の身分だったにもかかわらず、医術を学び、御医にまで上り詰めました。
歴史的人物であるにも関わらず、内医院に入るまでの生い立ちや家族について、多くは謎に包まれたままです。
しかし、実録などの史料からホジュンの功績は確かなものであり、東医宝鑑を14年かけて完成させたことも間違いのない事実です。
朝鮮王朝の医学を発展させたホ・ジュンの物語は、今も語り継がれ、多くの人に勇気と感動を与えています。