幼くして廃位になった定順王后とはどんな王妃だったのか?
悲劇の王妃・定順王后について家系図から詳しく調べました。
定順王后の家系図
定順王后は高麗の文官・宋惟翊を始祖とする礪山宋氏一族の出身です。
宋氏は173の本貫を抱える朝鮮を代表する氏族ですが、礪山宋氏はその代表格でした。
<定順王后の家系図>
叔母の帯方府夫人(父の妹)は、世宗の八男・永膺大君の正室でした。
また、定順王后の母の驪興府大夫人は韓明澮の夫人・黄驪府夫人と従姉妹の関係にありました。
韓明澮と繋がっているんですね。
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定順王后はどんな王妃だったのか?
定順王后が一途で気持ちの優しい王妃だったと思われます。
それは、なんと64年もの間、東望峰に登り寧越に向かって夫の冥福を祈っているからです。
寧越は夫の端宗が送られた流配地でした。
東望峰はその逸話から名付けられた名称で、現在、逸話を紹介する石碑が置かれています。
定順王后のプロフィール
氏族:礪山宋氏
尊号・徽号・諡号:懿徳端良斉敬定順王后
生年:1440年
没年:1521年6月4日
在位:1454年1月22日-1455年6月11日
父親:宋玹寿
母親:驪興閔氏
夫:端宗
埋葬:思陵
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定順王后の家族
端宗と定順王后の間には子供はできませんでした。
定順王后は3人兄弟姉妹の長女、弟と妹がいました。
また、1457年に定順王后の父・宋玹寿は端宗の復位を図ったとして処刑されています。
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
父 | 宋玹寿 | 1417-1457 | 礪良府院君 |
母 | 驪興府大夫人 | 1418-1498 | 驪興閔氏 |
弟 | 宋琚 | 不詳 | |
妹 | 貞敬夫人 | 不詳 | |
夫 | 端宗 | 1441-1457 | 第6代国王 |
子女 | なし |
定順王后の生涯
定順王后は幼くして王妃になりますが、端宗が廃位、流刑となると宮廷から追放されます。
王妃に冊封される
1440年、定順王后は宋玹寿の娘として生まれました。
<定順王后の生誕地>
1454年1月22日に、15歳で端宗の王妃に冊封されています。
しかし、1455年6月、端宗が譲位して上王になると、定順王后は懿徳大妃に封ぜられます。
更に1457年6月、死六臣の端宗復位計画が失敗すると、端宗は魯山君に降等の上、流刑にされてしまいます。
定順王后も夫人に降等の上、宮廷を追放されます。
端宗との永遠の別れ
定順王后は寧越の流刑地に向かう端宗を清渓川の永渡橋(ヨンドギョ)で見送ったと言われています。
永渡橋は今での現存しています。
永渡橋の名前の言われは、端宗と定順王后が別れた橋「永久に渡った橋(永遠の別れになった橋)」という意味です。
定順王后18歳、端宗17歳のときでした。
宮廷からの追放
端宗が賜死で亡くなると、定順王后は東大門の外崇仁洞に草ぶきの小さな家を建て、侍女三人と暮らしたといいます。
そして、毎日、東望峰に登り、寧越の方を向かって端宗の冥福を祈ったと言われています。
多くの民がこれを見て哀れに思い朝廷の非情を恨みました。
遂に、朝廷はこれを無視できずに住まいの提供を申し出ます。
しかし、定順王后はこれを拒否しました。
東望峰での64年間の祈り
定順王后は尼となり浄業院に入りました。
浄業院に入ってからも、毎日、東望峰に登り、端宗の冥福を死ぬまで続けたと言われています。
1521年7月7日、定順王后は82歳で亡くなりました。
定順王后は最も長く生きた王妃であり、64年間もの間、幼き夫・端宗の冥福を祈ったことになります。
後に、このことを知った英祖は定順王后を哀れに思い、浄業院に碑閣を築き冥福を祈りました。
また、1698年、粛宗により、端宗、定順王后とも復位しています。
定順王后の墓「思陵」
定順王后は後継ぎがいなかったため、端宗の姉・敬惠公主の夫・鄭氏の墓域に埋葬されました。
1698年、粛宗により復位すると王妃として京畿道 南楊州の墓に埋葬されました。
<定順王后が埋葬されている思陵>
その墓は端宗の墓を眺め嘆く心を表して「思陵」と名付けられています。
定順王后の人柄を表すような質素でたいへん慎ましいお墓です。
まとめ
定順王后と端宗の結婚生活は3年半程度でした。
しかし、18歳の定順王后は幼き夫を思い、82歳で亡くなるまで64年もの間、冥福を祈り続けました。
端宗と定順王后の名誉が回復したのは、廃位後241年も経ってからのことです。
定順王后はドラマに登場することはほとんどありません。
しかし、定順王后は朝鮮王朝最大の悲劇の王妃と言えるでしょう。