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延齢君の家系図【ヘチのイ・フォンは実在した王子】

ドラマ「ヘチ王座の道」に登場する延齢君(イ・フォン)は英祖(イ・グム)の異母弟で実在した王子です。

この記事では延齢君の家系図から大院君・高宗へと続く系譜、トンイとの関係、そして人物像や母・榠嬪朴氏について詳しく解説します。

延齢君の家系図|高宗へと続く系譜

延齢君(ヨルリョングン、李昍/イ・フォン)は第19代王・粛宗側室・榠嬪朴氏の間に六男として生まれました。

大院君や高宗へとつながる延齢君の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<延齢君の家系図>

延齢君には子供がなく、死後は荘献世子の息子・恩信君が養子となりました。しかし、恩信君も若くして世を去ったため、南延君が再び養子に入り、家督を継承しています。

この南延君は興宣大院君の父であり、最終的に高宗の即位につながります。延齢君の系譜は、朝鮮王朝後期の大きな転換点へと直結しているのです。

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延齢君とトンイの関係

延齢君(イ・フォン)の母親・榠嬪朴氏はトンイ(淑嬪崔氏)と同じ粛宗の側室です。従って、トンイの息子の延礽君(後の英祖)と延齢君とは異母兄弟の関係です。

延齢君とトンイの関係を示した図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<延齢君とトンイの関係>

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延齢君はどんな人物だったのか?

ヘチ王座への道のイ・フォンの画像

<ヘチ王座への道のイ・フォン>

粛宗実録には延齢君について次のように記録されています。

孝行心が強く、慎み深い人柄で、宮廷を離れて私邸に住んでいました・・・粛宗が病に伏してからは、昼夜を分かたず父のそばに仕え、一心に看病したといいます。
<引用元:粛宗実録1719年10月2日>

延齢君が優しい性格で、大変な父思いであったことが伺えます。

<プロフィール>
生年:1699年6月13日
没年:1719年10月2日(享年21歳)
幼名:仁壽(インジュ)
本名:李昍(イ・フォン)
爵号:延齢君(ヨルリョングン)

粛宗の寵愛ぶり

延齢君(イ・フォン)は粛宗にとって末っ子のため大変な寵愛を受けました。その寵愛ぶりは5歳で延齢君に冊封、さらに要職の宗親府有司堂上に任命しています。

9歳のときに金東弼の娘と婚礼させ、翌年には貞明公主の邸宅を延齢君に与えるほどでした。

また、延齢君が亡くなったときの粛宗の落胆ぶりが実録に記録されています。

上慟甚, 自爲文祭之, 又親製墓文
<引用元:粛宗実録1719年10月2日>

<訳>粛宗の悲しみは甚だしく、自ら祭文を作って祭り、さらに自ら墓誌を作成した

延齢君の母・榠嬪朴氏

榠嬪朴氏は1688年に粛宗の寵愛を受けて承恩尚宮となり、1699年には延齢君を出産。その後も順調に昇格し、1702年には側室の最高位である「嬪」にまで上り詰めます。

しかし、翌1703年、延齢君がまだ5歳のときに亡くなっています。記録によれば、粛宗は榠嬪朴氏と延齢君を深く寵愛し、延齢君を後継候補として考えていたとも伝えられています。

詳しくはこちら>>トンイは実話か創作か?【驚き!史実はドラマより奇なり】

延齢君の最期

延齢君(イ・フォン)は1719年、わずか21歳で病死しました。若さから考えて伝染病など急性の病が原因と推測されます。翌年には父の粛宗も世を去っており、その衝撃の大きさがうかがえます。

一方、ドラマ「ヘチ 王座への道」ではイ・タン(密豊君)に殺される設定になっていますが、これはあくまでドラマの創作です。

まとめ

延齢君(イ・フォン)は若くして亡くなりましたが、養子を通じて南延君・大院君・高宗へと系譜がつながり、朝鮮後期の歴史に大きな影響を残しました。

ドラマ「ヘチ王座への道」に登場するイ・フォンは、史実においても粛宗が特別に寵愛した重要な王子だったのです。

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