朝鮮王朝で廃位された王は燕山君と光海君の二人だけです。燕山君と光海君は本当に暴君だったのか?
この記事では、廃位の真相に史実と近年の研究をもとに詳しくご解説していきます。
燕山君と光海君は本当に暴君だったのか?
第10代王・燕山君と第15代王・光海君は、いずれもクーデターによって王位を奪われ、廟号(びょうごう)を持たずに「君」のまま歴史に名を残した王です。
燕山君が暴君との評価は変わりませんが、実は、近年の研究では光海君については「名君」と再評価する動きがあります。
<燕山君と光海君の比較>
| 比較項目 | 燕山君 | 光海君 |
| 在位期間 | 12年 | 15年 |
| 廃位時のクーデター | 中宗反正 | 仁祖反正 |
| 廃位時の年齢 | 31歳 | 49歳 |
| 廃位の理由 | 暴政、放蕩 | 廃母殺弟 |
| 享年 | 享年 | 66歳 |
| 最期 | 流刑地で逝去 | 流刑地で逝去 |
| 近年の評価 | 暴君 | 名君として再評価 |
では、両者の違いを詳しく解説していきます。
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燕山君が暴虐に走ったきっかけは、母・廃妃尹氏が廃位され殺されたことを知ったことでした。怒りに駆られ、母の死に関わった人物を徹底的に処罰する甲子士禍を7ヶ月にわたり実行しています。家族や子供を含む3000人近い犠牲者を出しました。
さらに成均館や寺院を妓生との遊興の場とし、諫める臣下を処刑するなど日々の暴政も繰り返され、ドラマでも暴君の象徴として描かれています。
【PR】スポンサーリンク光海君が暴君とされた理由
光海君が暴君と呼ばれる背景には、即位時の政敵粛清(廃母殺弟)があります。兄・臨海君や異母弟・永昌大君を排除し、義母・仁穆大妃を幽閉しました。
しかし、同様の粛清は他の王も行っており、光海君だけが特別残酷ではありません。民を苦しめた記録もなく、暴君説は1623年の仁祖反正で正統性を示すため作られた虚像と考えられています。
名君と再評価される光海君
光海君は戦乱で荒廃した国を立て直し、外交でも巧みに中立を保ちました。代表的な改革が大同法で、土地所有に応じて税を課す制度は庶民に歓迎されましたが、両班の反発を受けました。
在位中は限定的導入に留まりましたが、粛宗の時代に全国へ広まり、民を守った名君として近年高く評価されています。
光海君を悪役にした金尚宮
光海君の評判を悪化させた人物の一人が女官・金尚宮(キムサングン)です。即位を助けた側近でしたが、後に李爾瞻(イ・イチョム)と結び、永昌大君の死や仁穆大妃の幽閉に関与したとされます。
このため、「暴君の片棒を担いだ悪女」と評され、仁祖反正後に処刑されました。彼女の波乱の生涯はドラマ「王の女」「宮廷女官キム尚宮」で描かれています。
まとめ
暴虐な燕山君と、名君として再評価が進む光海君。どちらも廃位された王ですが、実像は大きく異なります。
光海君は仁祖反正による「暴君像」の犠牲者であり、近年では光海君再評価の研究やドラマで名君として描かれることが増えました。
この背景を知ると、「王になった男」「華政」「王の女」「火の女神ジョンイ」「王の顔」での光海君像も、従来の暴君イメージとは違った視点で楽しめます。