長子でありながら、悲惨な最後を遂げる臨海君とはどんな人物なのか。
臨海君の家系図から、臨海君の実像に迫ってみました。
臨海君の家系図
臨海君(イメグン)は第14代国王・宣祖の長男です。
側室・恭嬪金氏との間に生まれた子供で、第15代国王・光海君の実の兄にあたります。
<臨海君の家系図>
1608年に宣祖が亡くなり、光海君が即位すると危険視された臨海君は謀反の罪で資産を没収されて流刑の地に送られました。
長男の臨海君を差し置いて、次男の光海君が即位することに、明が難色を示していたことも原因でした。
臨海君は流配の1年後に流刑地で亡くなっています。
1623年、仁祖反正で光海君が廃位されると、次の国王・仁祖により臨海君の地位は復位されます。
資産は戻され、家族は元の生活に戻りますが、臨海君には跡取りがいませんでした。
そこで、慶昌君(臨海君の異母弟)の次男の陽寧君を養子に迎えることになりました。
臨海君の息子は光海君が廃位され、臨海君が復位されたときにもらった養子です。
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臨海君はどんな人?
臨海君(イメグン)は宣祖が世子を決める当時は長子であったので王位継承の第一候補でした。
しかし、大変、気性が荒く、度々暴力沙汰を起こしていたので世子からは外されました。
更に、日本軍が韓国に侵攻(壬辰倭乱)した時に、軍に参加した臨海君は順和君とともに加藤清正の捕虜になってしまいます。
実際には、臨海君が地元の民に惨殺や強奪を繰り返すことに耐えかねて、反乱軍が加藤軍に密告したのです。
日本軍の捕虜にはなりましたが、臨海君の態度は横暴だったといいます。
その後、日本と明国間で行われた講和の条件として、臨海君は開放されます。
しかし、捕虜にされた屈辱から臨海君の性格は益々荒れ、豪遊や暴力沙汰を繰り返したと言われています。
臨海君のプロフィール
生年:1572年8月14日
没年:1609年5月2日
享年:38歳
実父:宣祖
実母:恭嬪金氏
実弟:光海君
妻:陽川許氏(許銘の娘)
子供:1男(養子)1女
臨海君の家族
臨海君は許銘の娘と結婚して女の子が生まれています。
跡継ぎがいなかったため、復位後に異母弟である慶昌君の息子を養子に迎えました。
関係 | 名前 | 備考 |
父 | 宣祖 | 第14代国王 |
母 | 恭嬪金氏 | 宣祖の側室、金希哲の娘 |
本人 | 臨海君 | |
妻 | 不明 | 陽川許氏、許銘の娘 |
長女 | 不明 | |
長男(養子) | 陽寧君 | 養子(慶昌君の息子) |
臨海君の母
臨海君の母は宣祖の側室・恭嬪金氏(コンビン キムシ)です。
恭嬪金氏は文臣・金希哲(キム・ヒチョル)の娘で、宣祖の寵愛を受けた側室でした。
1572年に臨海君、1575年に光海君を生みますが、その3年後の1577年に25歳の若さで病死しています。
光海君が即位すると、恭聖王后の称号が与えられ、墓も陸(成陵)になります。
しかし、光海君が廃位されると、元の地位に戻され全ての号が取り消されました。
臨海君の子共が日延上人?
壬辰倭乱で臨海君が加藤清正の捕虜となったときに、講和条件として臨海君の二人の子供(男の子と女の子)は日本に連行されることになりました。
娘は戸川逵安の側室となり、息子の陽寧君は加藤清正に育てられて日延上人になったとの話が伝わっています。
日延上人は日蓮宗の僧侶で、白金覚林寺、常徳山玄照寺、長光山香正寺、海福山常楽院妙安寺などを開山した人です。
しかし、日延上人は加藤清正を養父とした人物ですが、臨海君の子共が日延上人であるという真偽は定かではありません。
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臨海君の生涯
臨海君は長子(最初の男の子)に生まれながら、世子になることはなく、最後は流配の地で無惨な死を遂げています。
年月 | 出来事 |
1572年 | 宣祖の長子として生まれる |
1577年 | 6歳のときに母・恭嬪金氏が亡くなる |
1585年 | 14歳で許銘の娘と結婚する |
1592年 | 壬辰倭乱で王命により軍隊に参加 |
加藤清正の捕虜となる | |
1608年 | 宣祖が亡くなり光海君が即位する |
臨海君が光海君により流配される | |
1609年 | 流配地で殺害される。享年38歳 |
1623年 | 仁祖反正で光海君が廃位される |
臨海君が復位され、没収された土地と奴婢が返却される | |
1632年 | 慶昌君の息子・陽寧君が臨海君の養子になる |
臨海君の最後
実録では、臨海君は流配地で毒を飲まされ殺害されたと記録されていますが、李爾瞻(イ・イチョム)の送った刺客により殺害されたとも言われています。
殺臨海君于圍所。 臨海在圍墻中, 只有一官婢在側, 穴通飮食。 至是守將李廷彪迫以飮毒, 不肯, 遽縊殺之。<光海君日記:1609年4月29日より抜粋>
臨海君は現在、京畿道南楊州市にあるお墓に眠っています。
まとめ
臨海君は気性の荒さから、長子に生まれながら世子になることはなく、最後は無惨な死を遂げました。
壬辰倭乱で戦に参加したときも、おそらく、功に焦り捕虜となり、益々、自虐的になっていったのではないでしょうか。
仁祖反正で廃位された光海君とともに、ある意味、悲劇的な兄弟だったと言えるかもしれません。