Googleのアドセンス広告を表示しています

朝鮮王朝時代の王様のお墓【40基は全てユネスコの世界遺産】

朝鮮王朝時代の王室のお墓についてご紹介します。

王様と王妃が埋葬されているお墓を王陵と言いますが、519年も続いた朝鮮王朝の王陵が現代まで完全に保存されているのは世界的にも類を見ないそうです。

そのため、王陵の42基のうち、韓国に存在する40基は全てユネスコの世界遺産に登録されています。

 

朝鮮王朝時代の王室のお墓

朝鮮王朝時代の王室の墓は全部で122基あります。

王様と王妃の墓である陵(ヌン)が42基、世子や世子嬪の墓である園(ウォン)が14基、その他の王族の墓である墓(ミョ)が66基です。

王陵のうち2基(齊陵と厚陵)は北朝鮮の領土内にありますが、韓国内にある40基は2009年6月にユネスコにより世界遺産として登録されています。

 

朝鮮王朝時代には、都(ソウル中心部)にお墓をつくることは身分に関係なく禁止されていました。

特に、王陵(王様と王妃のお墓)は都から10里(4km)以上、100里(40km)以内に作ることが決められていました。

だから、王様のお墓はソウル市近郊に集中しています。

 

【PR】スポンサーリンク

王様と王妃のお墓(王陵)

朝鮮王朝時代の王様と王妃のお墓は王陵と呼びます。

日本で言えば古墳ですね。

 

王陵42基を一覧に整理

王陵42基を王様ごとに整理しました。

王妃と一緒に埋葬されている王様もいれば、王様、王妃単独で埋葬されているものもあります。

齊陵と厚陵を除く、40基が韓国内に存在し、世界遺産として登録されています。

 

王陵名または陸群の青文字をクリックすると個々の説明に飛びます。

王陸が陸群に所属しているときは、陸群の最初に飛びます。

世代 王名 王陵名 埋葬人 場所 陸群
1 太祖 健元陵 太祖 京畿道 九里 東九陵
齊陵 神懿王后 開城(北朝鮮)
貞陵 神德王后 ソウル 城北区
2 定宗 厚陵 定宗、定安王后 開城(北朝鮮)
3 太宗 献陵 太宗、元敬王后 ソウル江南区 献仁陵
4 世宗 英陵 世宗、昭憲王后 京畿道 驪州
5 文宗 顕陵 文宗、顯德王后 京畿道 九里 東九陵
6 端宗 荘陵 端宗 江原道 寧越
思陵 定順王后 京畿道 南楊州
7 世祖 光陵 世祖、貞熹王后 京畿道 南楊州
追尊王 徳宗 敬陵 徳宗、昭恵王后 京畿道 高揚 西五陵
8 睿宗 昌陵 睿宗、安順王后 京畿道 高揚 西五陵
恭陵 章順王后 京畿道 坡州 坡州三陵
9 成宗 宣陵 成宗、貞顯王后 ソウル 江南区 宣靖陵
順陵 恭恵王后 京畿道 坡州 坡州三陵
11 中宗 靖陵 中宗 ソウル 江南区 宣靖陵
溫陵 端敬王后 京畿道 楊州
禧陵 章敬王后 京畿道 高揚 西三陵
泰陵 文定王后 ソウル 蘆原区
12 仁宗 孝陵 仁宗、仁成王后 京畿道 高揚 西三陵
13 明宗 康陵 明宗、仁順王后 ソウル 蘆原区
14 宣祖 穆陵 宣祖、懿仁王后、仁穆王后 京畿道 九里 東九陵
追尊王 元宗 章陵 元宗、仁獻王后 京畿道 金浦
16 仁祖 長陵 仁祖、仁烈王后 京畿道 坡州
徽陵 莊烈王后 京畿道 九里 東九陵
17 孝宗 寧陵 孝宗、仁宣王后 京畿道 驪州
18 顯宗 崇陵 顯宗、明聖王后 京畿道 九里 東九陵
19 肅宗 明陵 肅宗、仁顯王后、仁元王后 京畿道 高揚 西五陵
翼陵 仁敬王后 京畿道 高揚 西五陵
20 景宗 懿陵 景宗、宣懿王后 ソウル 城北区
惠陵 端懿王后 京畿道 九里 東九陵
21 英祖 元陵 英祖、貞純王后 京畿道 九里 東九陵
弘陵 貞聖王后 京畿道 高揚 西五陵
追尊皇帝 真宗 永陵 真宗、孝純王后 京畿道 坡州
追尊皇帝 莊祖 隆陵 莊祖、獻敬王后 京畿道 華城 隆健陵
22 正祖 健陵 正祖、孝懿王后 京畿道 華城 隆健陵
23 純祖 仁陵 純祖、純元王后 ソウル 瑞草区 献仁陵
追尊皇帝 翼宗
文祖
綏陵 翼宗、神貞王后 京畿道 九里 東九陵
24 憲宗 景陵 憲宗、孝顯王后、孝定王后 京畿道 九里 東九陵
25 哲宗 睿陵 哲宗、哲仁王后 京畿道 高揚 西三陵
26 高宗 洪陵 高宗、明成皇后 京畿道 南楊州 洪裕陵
27 純宗 裕陵 純宗、純明孝皇后、純貞孝皇后 京畿道 南楊州 洪裕陵

第10代の燕山君と第15代の光海君は国王を廃位されたので、お墓は陵(ヌン)ではなく、格の低い墓(ミョ)です。

追尊王、追尊皇帝とは、病気などの理由で王位に就く前に亡くなった王世子が、後から王としての廟号(死後、王に与える名前)が与えられて追尊されたもの。

例えば、莊祖は英祖が米びつに閉じ込めて殺した思悼世子です。

第26代の高宗が皇帝に即位したときに、荘祖の廟号を与えて追尊しました。

 

王陵群から整理した王陵の一覧

何人かの王様の王陵が集まり、王陵群を形成しているものもあります。

日本で言う古墳群ですね。

 

韓国の王陵群では東九陵や西五陵が有名です。

王陵群から整理したものをご紹介します。

王陵群の青文字をクリックすると個々の陵群の説明に飛びます。

王陵群 世代 王名 王陵名 場所
東九陵 1 太祖 健元陵(コンウォンルン)  京畿道 九里(クリ)市 仁倉洞
5 文宗 顕陵(ヒョンルン)
14 宣祖 穆陵(モクルン)
18 顕宗 崇陵(スンルン)
21 英祖 元陵(ウォンルン)
24 憲宗 景陵(キョンルン)
西五陵 8 睿宗 昌陵(チャンルン)  京畿道 高陽(コヤン)市
19 粛宗 明陵(ミョンルン)
西三陵 12 仁宗 孝陵(ヒョルン)  京畿道 高陽(コヤン)市
25 哲宗 睿陵(イェルン)
宣靖陵 9 成宗 宣陵(ソンルン)  ソウル市 江南(カンナム)区
11 中宗 靖陵(ジョンルン)
献仁陵 3 太宗 献陵(ホンルン)  ソウル市 端草(ダンチョ)区
23 純祖 仁陵(インルン)
隆健陵 22 正祖 健陵(ゴンルン)  京畿道 華城(ファソン)市
思悼世子 隆陵(ユンルン)
洪裕陵 26 高宗 洪陵(ホンヌン) 京畿道 南楊州(ナミャンジュ)市
27 純宗 裕陵(ユヌン)

 

【PR】スポンサーリンク

王室の墓の呼び名(陸、園、墓)

王室のお墓は次の3つに分類されています。

王室の墓 読み方 埋葬者
ヌン 王と王妃の墓
ウォン 世子や世子嬪(世子の妻)と王の親族の墓
ミョ 上記以外の王室の墓

王と王妃の墓は陵(ヌン)と呼ばれ、世子や世子嬪(世子の妻)と王の親族の墓は園(ウォン)と呼ばれています。

トンイのお墓は王の母になってから、昭寧園(ソリョンウォン)に昇格しました。

また、イサンとソンヨンの息子の文孝世子(ムニョセジャ)のお墓は孝昌園(ヒョチャンウォン)と呼ばれています。

 

それ以外の王族のお墓は墓(ミョ)です。

例えば、イサンの側室だったソンヨンのお墓は墓です。

また、廃位された王である燕山君や光海君のお墓も陵ではなく墓と呼ばれています。

 

7つの王陵群


7箇所存在する王陵群について説明しています。

東九陵(トングルン)

<東九陵の全体図>

東九陵は、景福宮から見て東にある九基の陵という意味です。

朝鮮王朝を建国した太祖の健元陵が最初に作られ、その後、多くの王や王妃の陸が造成されました。

 

風水学的に吉の地を明堂(ミョンダン)と呼び、代表的な明堂としては、生きている人が泊まる「陽宅」の宮殿と亡くなった人が眠る「陰宅」のお墓があります。

明堂としては、昌徳宮(チャンドックン)が最高の陽宅、東九陵が最高の陰宅といわれます。

 

総面積が1,914,000㎡(東京ドーム約40個分)の広大な土地に、9陸(15基のお墓)に17名の王と王妃が埋葬されています。

陵が追加されるごとに、東五陵や東七陵などと名称が変更されてきましたが、綏陵を最後に、現在の東九陵という名称に定着しました。

場所はソウル東郊の京畿道九里市仁倉洞です。

 

東九陵にある9基の陸は次の通りです。

<9基の陸>

名称 読み方 埋葬者
健元陵 コヌォンヌン 初代王・太祖
顕陵 ヒョンヌン 第5代王・文宗と顕徳王后
穆陵 モンヌン 第14代王・宣祖と懿仁王后、仁穆王后
徽陵 莊烈王后(仁祖の第二王妃)
崇陵 スンヌン 第18代王・顯宗と明聖王后
恵陵 端懿王后(景宗の最初の王妃)
元陵 ウォンヌン 第21代王・英祖と貞純王后
景陵 第24代王・憲宗と孝顯皇后、孝定皇后
綏陵 スヌン 文祖(追尊)と神貞皇后

顕陵と穆陵は、王と王妃の陵を別々の丘の上に造成していますが、元陵は一緒の丘に造成する双陵式、景陵は一緒の丘に造成する三連陵式です。

綏陵に埋葬されている文祖(追尊)とは、若くして亡くなった純祖の息子・孝明世子のことです。

また、恵陵は最初は世子嬪の墓として造成しています。

西五陵(ソオルン)

<西五陵の全体図>

西五陵には、「敬陵、昌陵、明陵、翼陵、弘陵」の5基の陸と「順昌園、緩慶園」の2基の園、そして、「大嬪墓」の1基の墓があります。

西五陵は朝鮮王朝の王族のお墓としては東九陵に次ぐ大きな敷地面積のお墓です。

敷地の総面積は約55万坪、約1,815,000㎡

場所は京畿道高陽市徳陽区西五陵路です。

 

西五陵にある主要なお墓は次の通りです。

<5基の陸>

名称 読み方 埋葬者
敬陵 キョンヌン 第9代王・成宗の父・徳宗と昭恵王后
昌陵 チャンヌン 第8代王・睿宗と安順王后
弘陵 ホンヌン 第21代王・英祖の王妃・貞聖王后
翼陵 インヌン 第19代王・粛宗の王妃・仁敬王后
明陵 ミョンヌン 第19代王・粛宗と仁顯王后、仁元王后

第9代王の成宗(ソンジョン)の父は成宗が王なる前に亡くなりましたが、死後、王の称号・徳宗(トクチョン)を追贈され、その妃・昭恵王后とともに敬陵に埋葬されました。

<2基の園>

名称 読み方 埋葬者
順昌園 スンチャンウォン 第13代王・明宗の長男・順懷世子と恭懷嬪尹氏
緩慶園 スギョンウォン 第21代王・英祖の後宮・暎嬪李氏

順昌園は朝鮮王朝初の「園」です。

<1基の墓>

名称 読み方 埋葬者
大嬪墓 テビンミョ 第19代王・肅宗の後宮・張禧嬪

第19代王・肅宗の側室で、第20代王・景宗の実母・張禧嬪のお墓も西五陵の敷地内に改葬されています。

西三陵(ソサムヌン)

<西三陵の全体図>

西三陵は孝陵(ヒョルン)、睿陵(イェルン)、禧陵(ヒルン)の3つの陵(王と王妃の墓)で構成されています。

西にある三基の陸ということで西三陵と呼ばれています。

総面積は224,254㎡の広大な土地です。

 

西三陵にある主要なお墓は次のとおりです。

<3基の陸>

名称 読み方 埋葬者
孝陵 ヒョルン 第12代王・仁宗と仁聖王后
睿陵 イェルン 第25代王・哲宗と哲仁皇后
禧陵 ヒルン 章敬王后(中宗の王妃)

<世子のお墓>

名称 読み方 埋葬者
昭慶園 ソギョンウォン 昭顯世子(仁祖の長男)
懿寧園 ウィリョンウォン 懿昭世孫(英祖の孫)
孝昌園 ョチャンウォン 文孝世子(正祖の長男)

<その他>

名称 読み方 埋葬者
懷墓 燕山君の生母・廃妃尹氏
綏吉園 真宗の生母・靖嬪李氏

 

この他、西三陵には側室のお墓、王女・翁主(妾から生まれた王女)のお墓、胎室(王族の胎盤を埋めた石室)などがあります。

<側室墓、王子王女墓・胎室>

<側室墓の主な埋葬者>

名称 埋葬者 備考
宜嬪墓 宜嬪成氏 正祖の側室
和嬪墓 和嬪尹氏 正祖の側室
元嬪墓 元嬪洪氏 正祖の側室

イ・サン(正祖)の側室であった 宜嬪成氏(ソンヨンのモデル)は息子の文孝世子とは別に側室墓の中で眠っています。

<側室墓の外観>

 

宣靖陵(ソンジョンヌン)

<宣靖陵の全体図>

宣靖陵(ソンジョンヌン)は宣陵(ソンルン)と靖陵(ジョンルン)から構成されています。

場所はソウル特別市瑞草区内谷洞です。

<2基の陸>

名称 読み方 埋葬者
宣陵 ソンルン 第9代王・成宗と貞顕王后
靖陵 ジョンルン 第11代王・中宗

宣陵はそれぞれ別の丘に造られている陵が同一の陵名を使用する「同原異岡(トンウォンイガン)」という形式の陸です。

1495年に造成されました。

 

靖陵は王の陵のみが単独で存在する、朝鮮時代の陵としては数少ない単陵(タンヌン)の形式の陸です。

1562年にソウル市京畿道高陽市にあった靖陵は、風水地理上、良い場所ではないという理由で現在の場所に移されました。

 

献仁陵(ホニンルン)

<献仁陵の全体図>

献仁陵(ホニンルン)は献陵(ホンヌン)と仁陵(インヌン)から構成されています。

場所はソウル特別市瑞草区内谷洞です。

<2基の陸>

名称 読み方 埋葬者
献陵 ホンヌン 第3代王・太宗と元敬王后
仁陵 インヌン 第23代国王・純祖と純元王后

献陵(ホンヌン)には第3代王・太宗と元敬王后が並んで埋葬されています。

献陵の石造物は他の王陵に比べて2倍も多く設置されています。

また、神道碑が二つ建てられている特徴があります。

 

献陵の隣には、第23代国王・純祖とその妃である純元王后が合葬されている仁陵(インヌン)があります。

合葬なのでこんもり盛られた陸寝(ヌンチム)は一つです。

仁陵はもとは坡州の長陵の近くにありましたが、1856年に献陵の隣に移されました。

 

隆健陵(ユンゴンルン)

隆健陵(ユンゴンルン) は隆陵(ゴンルン)と健陵(ユンルン)から構成されています。

健陵は第22代国王・正祖が眠るお墓、隆陵は正祖の父・思悼世子が眠るお墓です。

場所は京畿道 華城市 孝行路 481-21です。

<2基の陸>

名称 読み方 埋葬者
隆陵 ゴンルン 思悼世子と惠慶宮洪氏
健陵 ユンルン 第22代王・正祖と孝懿王后

健陵は通常の王陵のように、紅門、丁字閣、王陵が一直線に並んでいます。

しかし、隆陵は紅門、丁字閣、王陵が一直線にならんでいません。

紅門からは、王陵が見えないように並んでいます。

これは、風水的に良くないという理由で王陵の位置を変えているからです。

 

思悼世子と惠慶宮洪氏のお墓は、当初、京機道楊州に垂恩墓という名称で造成されました。

しかし、1789年に正祖が風水の観点から現在の場所に移して隆陵と名付けました。

健陵は、最初は隆陵の東に造成されていましたが、孝懿王后が亡くなると、現在の位置に移されました。

現在は、正祖と孝懿王后は一緒に合葬されています。

 

洪裕陵(ホンユルン)

<洪裕陵の全体図>

洪裕陵は洪陵(ホンヌン)と裕陵(ユヌン)の2つの陵で構成されています。

また、2つの陸以外には、皇太子の園や高宗の息子や側室の墓があります。

場所は、京畿道 南楊州市 洪裕陵路352-1

 

洪裕陵にある主要なお墓は次のとおりです。

<2基の陸>

名称 読み方 埋葬者
洪陵 ホンヌン 初代皇帝・高宗と明成皇后
裕陵 ユヌン 第2代皇帝・純宗と純明孝皇后、純貞孝皇后(継妃)

<皇太子のお墓>

名称 読み方 埋葬者
英園 ヨンウォン 英親王・李垠と妃・李方子
懷仁園 フェインウォン 英親王の次男・李玖(皇世孫)

皇太子の李垠(イ・ウン)は高宗の七男です。

李方子(イバンジャ)は日本の元皇族で、梨本宮家から大韓帝国に嫁がれ方です。

二人の墓碑には、「茨の道を歩んだ人」を意味する「懿愍(ウィミン)」の文字が刻まれています。

<その他>

名称 読み方 埋葬者
義親王墓 義親王(高宗の5番目の息子・李堈)
徳恵翁主墓 徳恵翁主(高宗の初めての娘)
貴人張氏、光華堂李氏、三祝堂金氏(高宗の側室)

 

洪陵はもとは明成皇后のお墓として、ソウルの清涼里にありましたが、高宗の死後、この場所に移され合祀されました。

裕陵は純宗、純明孝皇后、純貞孝皇后が一つの陸に埋葬された、唯一の「同封三室」の陵です。

洪陵と裕陵は従来の朝鮮王朝の王様の陵とは異なり、明の太祖の孝陵を模した皇帝陵の様式に従っています。

これは、国名を大韓帝国と変えたときに、「王」を「皇帝」と称したためです。

 

大きな違いは、丁字閣の代わりに直線型の寢殿を設置しています。

そして、陵の周囲にあった石物は寢殿に入る道の両サイドに配置されています。

石物の種類も今までの陸では見られなかったキリンやゾウ、獅子、ヘテなど多様な動物の石物が見られます。

 

単独で存在する王陵(単陸)

一人または合祀の形で存在する単独の王陵(単陸)も多く見られます。

 

荘陵(チャンヌン)

<荘陵の外観>

荘陵は第6代国王・端宗の陵墓です。

場所は、江原特別自治道 寧越郡 端宗路 190です。

 

首陽大君により廃位され、流刑の上、賜死させられた若き王の最後は悲惨でした。

処刑された端宗の身柄は無惨にも東江に投げ捨てられたのです。

しかし、処罰を恐れて誰も死体に近づくことはありませんでした。

 

端宗を哀れに思った寧越戸長の厳興道が意を決して息子とともに遺体を運び出します。

深夜、命がけで端宗の死体を回収すると厳家の墓所に埋葬したのです。

 

荘陵が王の墓として小さく質素なのは、1698年に粛宗が端宗の名誉回復し、この墓が王陵として扱われることになったからです。

その後、英祖、正祖により王陵としての整備が続けられました。

 

思陵(サルン)

<思陵の外観>

思陵は第6代王・端宗の王妃・定順王后(ジョンスンワンフ)の陵墓です。

場所は京畿道 南楊州市 真乾邑 思陵路 180 です。

 

定順王后は朝鮮王朝で最も悲運の王妃と言われています。

15歳で端宗と結婚した定順王后ですが、3年後の1457年に端宗が流刑にされると、定順王后も夫人に降格させられます。

端宗が賜死させられると、尼となり浄業院に入り、64年間もの間、東望峰に登り、夫の端宗の亡くなった寧越に向かって冥福を祈ったと言われています。

 

そのため、定順王后の墓は端宗の墓を眺め嘆く心を表して「思陵」と名付けられました。

思陵は屛風石と欄干石、武石人を建てない小ぢんまりとしたお墓です。

 

英陵(ヨンヌン)

<英陵の外観>

英陵はハングルを創ったことで有名な第4代国王・世宗と王妃・昭憲王后の朝鮮王陵初の合葬陵です。

場所は、京畿道 驪州郡 陵西面 英陵路269-50

 

お墓の周りには石の欄干をめぐらし、周囲には長明燈、虎や羊、馬などの石造物が配置された立派な王陵となっています。

 

英陵の近くには、孝宗とその王妃・仁宣王后の寧陵が存在します。

英陵と寧陵の2つを合わせて、英寧陵(ヨンニョンヌン)と呼ばれています。

<英陵と寧陵の配置>

 

寧陵(ニョンヌン)

<寧陵の外観>

寧陵は第17代国王・孝宗と王妃・仁宣王后の陵墓です。

場所は、京畿道 驪州郡 陵西面 英陵路269-50

 

寧陵は風水地理の見地から、王と王妃の墓を左右に並べて配置していません。

奥に孝宗、手前に仁宣王后の陵墓を配置する形式で造られています。

このような前後に配置した双陵の形式は朝鮮王朝初のものです。

 

寧陵は当初、ここにはありませんでした。

初代王・太祖の陵墓(健元陵)の西側にありましたが、屏風石が劣化したため、この場所に移動されました。

 

光陵(クァンヌン)

<光陵の配置(上から見た位置)>

光陵は第7代国王・世祖とその王妃・貞喜王后の陵墓です。

場所は、京畿道 南楊州市 榛接邑 光陵樹木園路354

 

光陵は王と王妃をそれぞれ別々に埋葬しています。

左の封墳が世祖の陵で、右の封墳が貞喜王后の陵です。

二つの稜の中間地点に一つの丁字閣を立てる形式で造られました。

 

世祖は陵墓製作の負担を軽減するために王陵の石室をなくして、「灰隔」の玄宮にするよう遺言をしています。

このため、光陵以降、王陵には石室が用いられなくなりました。

 

溫陵(オンヌン)

<溫陵の外観>

溫陵は第11代国王・中宗の王妃である端敬王后の陵墓です。

場所は、京畿道 楊州市 長興面 護国路 255-41

 

1506年に中宗反正で中宗が王位に就くと、端敬王后は王妃になります。

しかし、父親の愼守勤が燕山君の側近であったことから、わずか7日で廃位されてしまいました。

 

71歳で亡くなると、慎氏の墓に埋葬されましたが、1739年、英祖のときに復位され、新たに温陵(オンヌン)が造成されました。

溫陵は、貞陵(太祖の妃)や思陵(端宗の妃)を参考に、屏風石や欄干石などの石物のない素朴な作りになっています。

溫陵は交通の便も悪く、周囲に軍事施設も多いことから長い間、非公開でしたが、2019年から一般公開されています。

 

泰陵(テルン)

泰陵は第11代王・中宗の継妃である文定王后の陵墓です。

場所は、ソウル特別市 蘆原区 花郎路 681

 

文定王后が眠る泰陵の石物は、他の朝鮮王陵に比較しても大きく雄大です。

文定王后の権力がいかに強かったか物語っています。

<泰陵の外観>

 

康陵(カンルン)

康陵は文定王后の息子であり第13代王・明宗とその妃である仁順王后の陵墓です。

場所は、ソウル特別市 蘆原区 花郎路 681

 

明宗と仁順王后が眠る康陵は双陵で、二つの封墳が屛風石と欄干石で囲まれています。

康陵は整備されていなかったため、今まで非公開でしたが、2013年1月1日から一般公開されています。

<康陵の外観>

 

泰陵と康陵は近くに存在するため、2つの陵墓を合わせて泰康陵(テガンヌン)とも呼ばれています。

<泰康陵の配置>

 

齊陵(チェルン)

<齊陵の外観>

齊陵は初代国王・太祖の第一夫人であった神懿王后の陵墓です。

場所は、大韓民国との国境付近で北朝鮮の南部にある開城特別市です。

朝鮮開国の翌日に、陸号を齊陵(チェルン)と追尊されました。

 

北朝鮮に存在するため、世界遺産には登録されていません。

近くには、北朝鮮に造られたもう一つの陸墓・厚陵(定宗と定安王后のお墓)があります。

 

神懿王后のお墓を王陸の形に整備したのは、息子で第3代王の太宗でした。

そのため、齊陵は王妃の墓としては、大変立派なお墓になっています。

 

厚陵

<厚陵の外観>

厚陵は第2代王・定宗とその妃・定安王后の陵墓です。

場所は、大韓民国との国境付近で北朝鮮の南部にある開城特別市です。

 

建設は1412年の定安王后の死後に始まり、1419 年に正宗が亡くなって今の形に完成しました。

こんもりと盛られた盛土の封墳にそれぞれ玄室が設けられた双陵のタイプです。

 

どちらの墓も、彫刻が施された花崗岩の基部で囲まれ、お墓の周りは12の動物の像で囲まれています。

そして、墓までの道には武官や儒家の像が並んで立っています。

 

王様のお墓(王陵)の構造

王陸の全体構成や内部構造など詳しくは>>韓国の王陸の構造【王様と王妃が埋葬されているお墓の構造とは】でご紹介してきます。

興味のある方はご覧ください。

 

 

error: Content is protected !!