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廃妃尹氏の家系図【燕山君の母は生前に廃妃になった最初の王妃】

朝鮮王朝で生前に廃位になり、毒殺された最初の王妃・廃妃尹氏(ペビユンシ)

燕山君の母である廃妃尹氏とはどんな王妃だったのか。

廃妃尹氏の家系図から詳しく調べてみました。

 

廃妃尹氏の家系図

廃妃尹氏の家門は、坡平尹氏から分かれた尹敦を始祖とする咸安尹氏の一族です。

始祖の尹敦は高麗王の元宗のときに反乱を鎮圧して功績を立てました。

そして、尹敦の息子の尹希甫が本貫を咸安としました。

<廃妃尹氏の家系図>

 

咸安尹氏の源流である坡平尹氏からは貞熹王后、章敬王后、文定王后の3人の王妃を輩出しています。

<坡平尹氏出身の3人の王妃>

 

咸安尹氏と坡平尹氏の関係

尹敦は坡平尹氏の始祖・尹莘達から数えて10代目であり、同じく分かれた南原尹氏の始祖・尹威の孫にあたります。

咸安尹氏と南原尹氏は、後に坡平尹氏へ還譜しています。

<咸安尹氏と坡平尹氏の関係>

 

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廃妃尹氏はどんな王妃だったのか?

廃妃尹氏は側室に選ばれた頃は、容姿は美しく、慎ましかったので成宗の目に止まり寵愛を受けました。

しかし、燕山君を生んだ頃から次第に仮面が剥がれていきました。

廃妃尹氏のプロフィール

<プロフィール>
在位:1476年8月9日 – 1479年6月2日
別称:斉献王后
生年:1455年6月1日
没年:1482年8月16日
配偶者:成宗
子女:燕山君
氏族:咸安尹氏
父親:尹起畎(ユン・ギム)
母親:申氏

 

廃妃尹氏の性格

廃妃尹氏の本来の性格は気が荒くて、嫉妬深い性格でした。

燕山君が生まれ成宗の心が離れていくと、次第に寵愛される側室に嫌がらせをしました。

その行いは常軌を逸していたといいます。

 

さらに、叱責する義理の母をにらみつけるなど王妃としては考えられない態度をとりました。

とうとう最後には、成宗の顔を爪で引っ掻くという不敬を犯して廃位され宮廷から追放されたのです。

 

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廃妃尹氏の生涯

廃妃尹氏の生涯を関連する出来事と合わせて整理しました。

出来事
1455年 尹起畝の娘として生まれる
1473年 後宮の揀択で入宮して、淑儀に封じられる
この時、後の王妃・貞顕王后も入宮して淑儀に封じられている
1474年 最初の王妃・恭恵王后が亡くなる
1476年 成宗が仁粋大妃の反対にもかかわらず、妊娠中の廃妃尹氏を王妃にする
4ヶ月後に燕山君を出産
1477年 気が強く、嫉妬深い性格があらわれる
寵愛される側室に嫌がらせを行い、砒素や呪詛の道具が見つかる
1479年 成宗の顔を爪で引っ掻くという不敬により廃位され宮廷から追放される
1480年 側室だった貞顕王后が王妃に選ばれる
1482年 廃妃尹氏が謹慎していたにもかかわらず、偽りの報告により賜死となる
1483年 燕山君が世子になる
1494年 成宗が逝去、燕山君が第10代王に即位する
1504年 燕山君が生母・廃妃尹氏の賜死に関わったすべての人を粛清(甲子士禍)
燕山君により復位、斉献王后(チャホンワンフ)と追号される
墓も懐陵と改称
1506年 中宗反正で燕山君が廃位、再び復位を取り消される

 

廃妃、賜死にされた経緯

廃妃尹氏が廃位された原因は、気の荒い、嫉妬深い性格でした。

成宗が何と12人の夫人をめとり、16男12女の子供を得るほどの女好きだったことも憎悪が増した要因でした。

 

しかし、多くの王子を持つことが王族の安定になるため、王妃の嫉妬は厳禁とされていました。

燕山君を生んで、安定した王妃の座を得たにも関わらず、廃妃尹氏の異常な嫉妬心が常軌を逸した行動をおこさせます。

 

当時、成宗の寵愛を受けていた側室に貴人鄭氏と貴人嚴氏がいましたが、執拗に意地悪をしたと言われています。

更に、廃妃尹氏の部屋からは毒殺できる砒素や呪詛の道具が見つかりました。

王妃にとって嫉妬は罪でしたが、成宗が取り繕って廃位は逃れました。

 

しかし、廃妃尹氏は久しぶりに部屋に訪れた成宗に対して、口論の末に顔を爪で引っ掻くという不敬をはたらきます。

王様の顔に傷をおわせたのですから、成宗もかばうことができず、廃妃尹氏は廃位されて宮廷を追い出されます。

 

3年後に、「将来の王の母親をこのままにする訳にはいかない」と実家で謹慎していた廃妃尹氏の処遇が問題になりました。

そこで、成宗は廃妃尹氏の謹慎の状況を確認させました。

廃妃尹氏が大人しく謹慎していたにもかかわらず、仁粋大妃が王に偽りの報告をさせました。

二人の側室・貴人鄭氏、貴人嚴氏も加担したといいます。

 

この報告により、復位を期待した廃妃尹氏は賜死となりました。

これが原因で後に、燕山君が側室の貴人鄭氏と貴人嚴氏を虐殺、仁粋大妃を死に追いやったのは有名な話です。

 

朝鮮王朝実録で見る廃位

朝鮮王朝実録の成宗実録には1479年6月2日に廃妃尹氏が廃位になったことが記録されています。

王妃尹氏, 爰自後宮, 遂正坤極, 旣無陰助之功, 反有忌妬之心, 頃在丁酉, 潛懷毒藥, 欲害宮人, 陰謀彰露, 予欲廢之。
ーーー(中略)ーーー
乃於成化十五年六月初二日, 廢尹氏爲庶人
<引用元:成宗実録1479年6月2日>

意訳すると

王妃の尹氏は側室から王妃になったが、遂に王妃の座を正すときがきた。
すでに、王を陰から助けることもなく、嫉妬心から妬みを繰り返すばかりである。
丁酉の年、毒薬を隠し持ち、宮人を殺害しようとした陰謀が明らかになったので廃位を要求する。
ーーー(中略)ーーー
成化15年6月2日、尹氏を廃位して庶民とする。

 

廃妃尹氏の家族

廃妃尹氏は尹起畎の後妻の長女として生まれ、異母兄も含めて4人の兄がいました。

<廃妃尹氏の実家>

関係 名前 備考
祖父 尹應 縣監
祖母 安東権氏 贈貞敬夫人
父親 尹起畎 判奉常寺事
前妻 陽城李氏
 長男 尹遇
 次男 尹邂
 三男 尹逅
後妻 高霊申氏 申叔舟の従妹
 四男 尹遘 參判
 長女 廃妃尹氏 燕山君の母

女性は名前が記録されていないので、本貫を記載しています。

 

廃妃尹氏は成宗との間には、後に暴君と呼ばれる一人息子の燕山君がいました。

<廃妃尹氏の家族>

関係 名前 備考
成宗 第9代国王
廃妃尹氏
息子 李㦕(イ・ユン) 第10代国王・燕山君

 

廃妃尹氏の母親

廃妃尹氏の母親は申叔舟の従妹にあたります。

<母親と申叔舟の関係>

申叔舟(シン・スクチュ)は朝鮮王朝初期の政治家であり学者です。

学者としての申叔舟はハングルの創製にかかわり世宗に重用されました。

また、成宗にも仕えて経国大典の編集にもかかわっています。

 

政治家としての申叔舟は1453年に癸酉靖難に協力して世祖の信頼を得て重臣となり最高官職である領議政まで出世します。

しかし、一方では癸酉靖難で端宗を裏切り、世祖に乗り換えた裏切り者として「スクチュナムル」と呼ばれています。

スクチュナムルとは、傷みやすい豆もやし(ナムル)にスクチュの名前を付けて、簡単に心変わりする申叔舟を軽蔑した言葉です。

 

廃妃尹氏が出るドラマ

宮廷女官チャングムの誓いでは、初回に廃妃尹氏が賜死させられるシーンが出てきます。

インス大妃の廃妃尹氏が史実に近く、礼儀正しい廃妃尹氏が次第に豹変していく姿を見ることができます。

王と私では廃妃尹氏を大胆にアレンジしてヒロインとして描いています。

<廃妃尹氏が出るドラマ>
韓明澮〜朝鮮王朝を導いた天才策士〜(1994年、チャン・ソヒ)
王と妃(1999年、キム・ソンリョン)
宮廷女官チャングムの誓い(2003年、イ・ジュヒ)
王と私(2007年、ク・ヘソン)
インス大妃(2011年、チョン・ヘビン)
七日の王妃(2017年、ウ・ヒジン)

 

まとめ

朝鮮王朝で最初に王妃の時代に廃妃になった廃妃尹氏について家系図から調べました。

最初は礼儀正しい廃妃尹氏も嫉妬深い性格が仇となり、次第に豹変していったことが分かります。

成宗が女好きで多くの側室を抱えたことも廃妃尹氏の嫉妬心に輪をかけました。

 

燕山君の朝鮮王朝最大の粛清は廃妃尹氏の嫉妬心によって起こりました。

この事件はその後、世子の母親に大臣達がすり寄る一因になったとも考えられます。

 

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