韓国朝鮮で側室を持たない王は次の3人です。
・第18代王 顕宗
・第20代王 景宗
・第27代王 純宗
詳しくご紹介していきます。
側室を持たない王
王位継承を安定化するために子孫を残すことが、側室を持つ大きな目的でもありました。
しかし、顕宗には男の子がたったの1人、他の2人の王には息子がいませんでした。
代 | 王名 | 在位期間 | 正室 | 正室の子 |
18 | 顕宗 | 1659-1674 | 明聖王后 | 1男3女 |
20 | 景宗 | 1720-1724 | 端懿王后 宣懿王后 |
なし |
27 | 純宗 | 1907-1910 | 純明孝皇后 純貞孝皇后 |
なし |
では、なぜ3人の王たちは側室を持たなかったのでしょうか?
心労が耐えなかった顕宗
顕宗は1659年に父の孝宗が亡くなり、19歳で王位に就きました。
1660年から1668年の間に正室・明聖王后との間に1男4女(1女は早世)の子供をもうけています。
1670年には約100万人が餓死した庚辛大飢饉が朝鮮を襲いました。
また、この時代は政争の激しい時代で、顕宗は心労が耐えなかったといいます。
派閥間の激しい政争の中、1674年、顕宗は34歳の若さで亡くなりました。
明聖王后は気が強く、気性の荒い王妃でしたので、顕宗は明聖王后が恐ろしくて側室をもつことができなかったとも言われています。
しかし、毎年のように子供が生まれていた顕宗にとって明聖王后が恐怖の対象なのか、愛妻だったのか、今となっては知るすべはありません。
子供ができない病気の景宗
景宗が粛宗と張禧嬪の息子であることは有名です。
景宗は子供ができない病気の痿疾(いしつ)でした。
痿疾について詳しくは>>トンイに登場する世子の病気の痿疾(いしつ)は本当か? をご覧下さい。
景宗は正室、継室と二人の王妃を迎えましたが、子供はできませんでした。
また、側室を持たなかったのは、痿疾(いしつ)が要因とも考えられます。
知的障害だった純宗
純宗は1882年、9歳のときに2歳年上の女性(後の純明孝皇后)と結婚しています。
二人の間に子供ができないまま、1898年、17歳の純宗はアヘン入りのコーヒーを飲み、知的障害になっています。
1904年、純明孝皇后は病死、1906年に尹沢栄の娘(後の純貞孝皇后)と結婚します。
このとき、純貞孝皇后は、わずか13歳、純宗33歳でした。
翌年、1907年、純宗が第2代皇帝に即位しましたが、既に、大韓民国は日本の支配下にありました。
皇太子には異母弟の英王李垠が冊立され、純宗に子供を望む必要はありませんでした。
つまり、純宗に側室をもたせる必要もなかったのです。
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側室を多くもった王
韓国朝鮮王朝で最も多くの側室をもった王は太宗で、その数はなんと18人です。
太宗が多くの側室を持ったことが、元敬王后との夫婦仲が悪化した一つの要因と言われています。
1位:第3代王・太宗、側室18人
2位:第26代王・高宗、側室12人
3位:第10代王・燕山君、側室11人
4位:第4代王・世宗、側室10人
4位:第9代王・成宗、側室10人
歴代王の側室の人数と子女の人数は次のとおりです。
<歴代王の側室の人数と子女の人数>
代 | 王名 | 側室の人数 | 子女の人数 |
1 | 太祖 | 4人 | 0男2女 |
2 | 定宗 | 7人 | 15男4女 |
3 | 太宗 | 18人 | 8男13女 |
4 | 世宗 | 10人 | 10男2女 |
5 | 文宗 | 5人 | 2男3女 |
6 | 端宗 | 2人 | ー |
7 | 世祖 | 3人 | 3男0女 |
8 | 睿宗 | 2人 | ー |
9 | 成宗 | 10人 | 14男11女 |
10 | 燕山君 | 11人 | 1男2女 |
11 | 中宗 | 8人 | 8男6女 |
12 | 仁宗 | 4人 | ー |
13 | 明宗 | 2人 | ー |
14 | 宣祖 | 9人 | 13男10女 |
15 | 光海君 | 9人 | 0男1女 |
16 | 仁祖 | 4人 | 2男1女 |
17 | 孝宗 | 1人 | 1女 |
18 | 顕宗 | ー | ー |
19 | 粛宗 | 6人 | 6男 |
20 | 景宗 | ー | ー |
21 | 英祖 | 4人 | 2男8女 |
22 | 正祖 | 4人 | 2男2女 |
23 | 純祖 | 1人 | 1女 |
24 | 憲宗 | 2人 | 1女 |
25 | 哲宗 | 7人 | 4男6女 |
26 | 高宗 | 12人 | 5男1女 |
27 | 純宗 | ー | ー |
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まとめ
韓国の朝鮮王朝で側室を持たない王は3人でした。
いずれの王も側室を持たなかった理由は定かではありません。
しかし、全体として側室の数は初代の頃からに比較して、次第に減少していったようです、
これは、儒教的な倫理観から「たとえ国王でも、多くの側室を持つのはいかがなものか」といった意見が儒教者からあったからとも言われています。