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李叔蕃(イ・スクボン)は実在した李芳遠の側近中の側近

武将としてのイメージが強い李叔蕃(イ・スクボン)ですが、

実は、文科に合格している文官でした。

李芳遠から信頼された側近中の側近・李叔蕃とは、どんな人物だったのか?

詳しくご紹介します。

 

李叔蕃はどんな武将だったのか?

李叔蕃(イ・スクボン)は文科に合格した文官でしたが、軍事的な才能に飛び抜けて優れていました。

そのため、李芳遠(太宗)が任さた官職の多くが軍事に関連するものでした。

 

李叔蕃は軍将の選抜、軍事訓練による兵士の育成、軍備拡張など建国初期の軍隊の組織確立に大きく貢献しました。

最後まで軍権を手放さなかった李芳遠にとって、李叔蕃は腹心中の腹心でした。

 

李叔蕃のプロフィール

李叔蕃(イ・スクボン)は物怖じせず、何事もはっきりと物言う性格でした。

特に、李芳遠から認められてからは、自分より高い官位の人に対しても、横暴な態度をとったといいます。

その性格は、晩年にますます強くなり、最後は弾劾されて流刑となっています。

<プロフィール>
李叔蕃(イ・スクボン)
生年:1373年
没年:1440年
享年:68歳
氏族:安城李氏
父:李坰(イ・キョン)
母:英陽南氏(南輝珠の娘)
墓:京畿道始興市山峴洞

 

李叔蕃の家系図

李叔蕃(イ・スクボン)は李仲宣を始祖とする安城李氏一族の出身です。

李仲宣は高麗時代に京軍戸長(地方の管理官)を務め、治民善政の功績で門下侍中に推薦されました。

更に、李資義の謀反を鎮圧した戦功で、三重大匡太師に昇進、三韓壁上功臣となり白夏君に封じられています。

<李叔蕃の家系図>

 

李叔蕃の家族

母の南氏は夫の尹控(윤공)が亡くなった後に、二人の息子を連れて李坰と結婚して李叔蕃を生みました。

連れ子の尹子當は、李叔蕃と一緒に座命功臣に冊封されています。

李叔蕃の妻は清州鄭氏一族の鄭摠の娘でしたが、子供や子孫に関する記録はありません。

関係 名前 生年-没年 備考
李坰 不詳
英陽南氏 不詳 南輝珠の娘
正室 清州鄭氏 不詳 鄭摠の娘
李仲蕃 不詳
異父兄 尹子良 不詳 実の父は尹控
異父兄 尹子當 不詳 実の父は尹控

注意)尹子當は尹子堂と記載されている記録もあります。

 

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李叔蕃の生涯

1373年、李叔蕃(イ・スクボン)は李坰の長男として生まれています。

ただし、母親の鄭氏は再婚で、前夫の尹控との間には二人の息子がいました。

 

李芳遠の臣下として功績を上げる

1393年、李叔蕃は文科に及第し官僚(左拾遺)となりました。

その後、李叔蕃は李芳遠の臣下となります。

 

1398年、第一次王子の乱では、兵を出動させて李芳遠を助け、鄭道傳、南誾、沈孝生などの排除に貢献しました。

この功績で李叔蕃は定社功臣二等に選抜され、安城君に封じられて右副承旨に大抜擢されています。

 

1400年、第二次王子の乱では朴苞の軍隊を鎮圧、中樞院副使、左軍摠制使に昇進しています。

更に、太宗が即位すると佐命功臣1等に冊封されました。

 

強力な権力と高い地位を獲得する

1402年、趙思義の乱が勃発しましたが、李叔蕃はこの乱を平定する活躍を見せます。

次々と上げる功績が認められ、当時、まだ30歳に過ぎなかった李叔蕃は強力な権力を持つようになります。

以降、軍事関連の要職を歴任、軍将の育成、兵器の整備、軍事組織の確立など、軍事改革に大きな貢献をしました。

 

1407年に元敬王后の弟である閔無咎と閔無疾の兄弟が粛清されましたが、弾劾の先頭に立っていたのは李叔蕃でした。

 

1412年、李叔蕃は崇政大夫(正一品)となり、翌年の1413年には兵曹判書となっています。

1415年には、議政府左贊成となり、安城府院君に封じられました。

 

無礼と不忠の罪で弾劾を受ける

若い頃から横暴な性格は、太宗の信頼を盾に昇級するほどに、ますます助長されていきました。

1416年、ついに、周囲の反発から「無礼」と「不忠」の罪で弾劾、罷免の上、遠方に移住させられました。

刑曹、臺諫(司憲府と司諫院)が何度も李叔蕃の罪を訴え、処罰を求めましたが、太宗は認めませんでした。

 

しかし、1417年、遂に李叔蕃は讓寧大君の非行に関わった具宗秀と私的に交流したとして慶尚道咸陽に流刑となります。

李叔蕃はすぐに釈放されると思っていましたが、釈放されることはありませんでした。

 

世宗に呼び戻される

1438年、世宗は「太宗の獻陵の碑文に記録された文言」と「王子の乱に関する実録や史草の記録」の確認のため、李淑藩を流刑地より呼び戻しています。

聞き取り調査が終わると、世宗は李叔蕃の流刑を解除して、漢陽近くの京畿道に暮らせるように計らいました。

 

李叔蕃の最後

臣下は流刑地に戻すことを上訴しましたが、世宗は李叔蕃の病気を理由に承諾しませんでした。

2年後の1440年、再び流刑地に行くこと無く、李叔蕃は67歳で病死しています。

現在、李叔蕃は京畿道始興市山峴洞に眠っています。

 

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歴任した官職及び称号

李叔蕃は太宗の絶大なる信頼を得て、出世していきました。

李叔蕃が務めた官職をご紹介します。

官職及び称号
1393年 左拾遺
1398年 第一次王子の乱(定社功臣二等)
右副承旨
1399年 左副承旨
1400年 第二次王子の乱(佐命功臣1等)
中樞院副使、左軍摠制使
1402年 知承樞府事
1402年 趙思義の乱
4月4日、武科の監校官
5月11日、巡軍萬戶(現代の警察に相当)
6月11日、三軍都摠制の內甲士の左番
10月15日、知承樞府事
11月27日、知議政府事
1404年 3月11日、病気のため知議政府事を辞職
10月23日、參贊議政府事
1405年 4月21日、知貢擧(科拳の試験官)
1406年 7月13日、中軍摠制を兼務
11月15日、判義勇巡禁司事を兼務
1407年 12月11日、義興侍衛司上護軍を兼ねる
1408年 11月10日、中軍都摠制
1410年 7月6日、知義興府事を兼務
1412年 12月4日、崇政大夫(正一品)
1413年 4月7日、兵曹判書
1414年 1月13日、議政府贊成事
1415年 1月26日、議政府左贊成
1415年 5月17日、安城府院君

 

まとめ

李叔蕃は李芳遠を王にした功績だけでなく、即位後も太宗を支えた側近中の側近でした。

文官でありながら、武芸に優れ、軍事面で数々の功績を上げました。

 

しかし、横暴な性格で、太宗の信頼を盾に誰かまわず傍若無人に振る舞う態度は周囲の反発を呼びました。

最後は、弾劾され流配となります。

 

処刑を求める上訴が殺到しますが、太宗は李叔蕃を最後までかばいました。

李叔蕃は太宗の目指した君主政治の確立に無くてはならない大切な人物だったのです。

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