朝鮮王朝の王妃で写真が残っているは誰?
明成皇后の写真は本物?
王妃の写真について詳しく調べてみました。
現存する王妃の写真
朝鮮王朝時代の王妃で確実に写真が実在する人物は純宗の王妃・純貞孝皇后のみです。
これは、写真の技術が韓国に伝わったのは19世紀中頃の高宗の時代だからと考えられます。(高宗の在位は1863年~1907年)
実際、初めて写真スタジオが開業されたのは1883年のことでした。
日本への留学経験のある職業写真家のキム・ヨンウォン が開業したスタジオでした。
しかし、キム・ヨンウォン がこのスタジオで撮影されたと思われる写真は現存しません。
また、同じ頃の1884年、フェリーチェ・ベアトが従軍カメラマンとして米海軍に同行し、韓国を訪れています。
1ヶ月の滞在期間中に、彼は兵士、戦場、現地風景など47 枚の写真を写真を残していますが、王妃の写真など王族を写した写真はありませんでした。
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王妃・純貞孝皇后の現存する写真
純貞孝皇后の写真としては、1909年に撮影されたとされる写真が現存しています。
王妃として確認できる最古の写真です。
<純貞孝皇后の写真>
純貞孝皇后は朝鮮王朝最後の王(第27代目)である純宗の2番めの王妃でした。
1966年に73歳で亡くなった純貞孝皇后には何枚か写真が現存しています。
次の写真は晩年の純貞孝皇后です。
<晩年の純貞孝皇后>
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純貞孝皇后と家族の写真
純貞孝皇后が写っている写真として、高宗とその家族を撮った写真があります。
義親王の息子の李ソク氏が所蔵していたものです。
<高宗と家族の写真>
右から3番めが純貞孝皇后です。
純貞孝皇后の右隣の夫人は義親王の妃・金妃です。
義親王は写真の一番に左にいる男性で高宗と側室・貴人張氏の間の子供です。
高宗と純宗の間にいる幼い子は徳恵翁主で、高宗が60歳で初めて生まれた女の子でした。
徳恵翁主には、一人で写る写真も現存しています。
<徳恵翁主の写真>
論争が続く明成皇后(閔妃)の写真
写真が発見されるたびに、真偽の論争が続くのが閔妃の写真です。
もし、明成皇后と証明されれば、朝鮮王朝で一番古い王妃の写真と言えます。
閔妃は「閔氏の王妃」という意味で、死後の正式な諡号(しごう)は明成皇后です。
明成皇后は殺害を恐れ、自身の写真を撮らせなかったと言われています。
真偽の論争が続く閔妃の写真は次の1枚です。
<明成皇后と言われてきた写真>
しかし、この写真が明成皇后であるという確証は未だに見つかっていません。
宮廷の女官の写真?
佛教大学文学部の三谷憲正名誉教授は、「閔妃」試論(2003年)の中で、宮廷の女官の正装した姿を撮影した可能性が高いと推測しています。
試論の中で非常に注目すべき事を引用されています。
この写真は決して明成皇后の写真ではない。その理由は第一に、アソダーウッド女史やハルバート博士が一様にこれを王妃の写真であると言っていなかったという事実である。アソダーウッド女史はこの写真を指し「正装した貴夫人」だとし、ハルバート博士は「正装した宮女」だと説明した。高宗に近く仕えた顧問と皇后の御典医がちがうという、これよりさらに明白な証言はない。
(引用元:東亜日報:2001年7月7日 韓国建国大学のシソポンニョン氏)
皇后付きの侍医のアソダーウッド女史と高宗の顧問であったハルバート博士がともに、自分たちの著書の中で問題の写真を「正装の韓国夫人」「正装の宮中の女」と記述していたということです。
かなり、真実性の高い証言と言えます。
新たな写真の発見
2006年に義理の父親と同じ背景で写る女性の写真が発見され、明成皇后ではないかと論争が起こりました。
しかし、論争は真っ二つに別れ、解決に至ることはできませんでした。
<興宣大院君と同じ背景の写真>
まとめ
写真の技術が朝鮮に導入されたのは高宗の時代で、王妃の写真と確認できる最古のものは純貞孝皇后の写真でした。
一方、明成皇后の写真とされるものについては議論が続いており、真偽は未だ確定されていません。
写真は歴史を後世に伝える貴重な遺産であり、新たな写真の発見と真偽の研究が進められることが期待されます。