朝鮮王朝終焉の不遇な時代を生きた妃
純貞孝皇后とはどんな妃だったのか?
家系図から詳しく調べてみました。
純貞孝皇后の家系図
純貞孝皇后は尹君正を始祖とする氏族・海平尹氏の出身です。
尹君正は高麗で高宗と元宗の2代に仕えた重臣でした。
<純貞孝皇后の家系図>
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純貞孝皇后はどんな王妃だったのか?
激動の時代を生きた純貞孝皇后は、試練に対して不屈の精神で立ち向かった豪快な女性でした。
また、死ぬ瞬間まで穏やかで品格を忘れなかった大韓帝国最後の皇后でした。
純貞孝皇后のプロフィール
在位:1907年7月20日-1926年4月24日
本名:尹曾順
諡号:献儀慈仁純貞孝皇后
生年:1894年8月20日
没年:1966年2月3日(新暦)
享年:73歳
夫:純宗(第27代王、第2代皇帝)
氏族:海平尹氏
父親:尹沢栄
母親:慶興府夫人(杞溪俞氏)
陵墓:裕陵
純貞孝皇后の逸話
純貞孝皇后の有名な逸話を2つご紹介します。
1つ目は、1910年、合併条約を迫る日本帝国との調印に使用する玉璽(国王の印鑑)をチマの中に隠し、親日派に渡さなかったそうです。
2つ目は、1950年、朝鮮戦争のときに、昌徳宮に侵入してきた北朝鮮の人民軍兵士を怒鳴りつけて追っ払ったエピソードが有名です。
いずれも、大胆で豪快、肝の座った女性であることが分かる逸話です。
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純貞孝皇后の家族
純宗との間に子供はできませんでした。
関係 | 名前 | 生年-没年 | 備考 |
父 | 尹沢栄 | 1876-1935 | 海豊府院君 |
母 | 慶興府夫人 | 不詳 | 杞溪俞氏 |
兄 | 尹弘燮 | 不詳 | 独立運動に関与 |
弟 | 尹毅燮 | 不詳 | |
妹 | 尹喜燮 | 不詳 | 俞億兼の妻 |
夫 | 純宗 | 1874-1926 | 第2代皇帝 |
金銭感覚の無かった父の尹沢栄
純貞孝皇后の父の尹沢栄は金銭感覚が無かったことで有名です。
尹沢栄は娘を皇太子妃にするための、多額の借金をして純献皇貴妃(高宗の側室)に巨額の賄賂を渡したと言われています。
また、贅沢な暮らしで膨大な負債と借金を抱え込み、1920年には督促から逃げるために中国の北京に亡命しています。
その後、尹沢栄は一度も帰国することができず、1935年10月24日に北京で亡くなりました。
純貞孝皇后の生涯
1894年、純貞孝皇后は尹沢栄の娘として京畿道楊根郡に生まれました。
揀択で皇太子妃になる
1904年に、皇太子妃(純明孝皇后)が亡くなり、新しい皇太子妃を選ぶ揀択が1906 年 3 月から始まりました。
その結果、純貞孝皇后が皇太子妃に選ばれました。
純貞孝皇后は1907年1月、13歳で20歳上の皇太子(後の純宗)と結婚しています。
1907年7月20日、夫が即位すると、純貞孝皇后は皇后となりました。
皇后になった純貞孝皇后に待ち受けていたのは、波乱万丈の暮らしでした。
日韓併合で李王妃に降格
1910年、日韓併合が調印され、朝鮮の王室は日本の王室に組み込まれました。
その結果、純貞孝皇后は李王妃に格下となり、昌徳宮の大造殿で暮らしました。
1920年、父の尹沢栄が多額の借金のため、朝鮮にいることができず、北京に逃亡しています。
夫・純宗と父親の逝去
1926年4月、夫の純宗が亡くなります。
純貞孝皇后は葬儀が終わるまで食事も入浴もせず、悲しみにくれたと言われています。
この後、住まいを昌徳宮の大造殿から楽善斎に移しています。
1935年、父の尹沢栄が北京で亡くなりました。
父親が北京に逃亡してから15年の間、二人は一度も顔を合わせることはありませんでした。
不遇な宮殿外での暮らし
1950年、朝鮮戦争が勃発しました。
翌年、戦況が悪化したため、釜山で避難生活を送ることになりました。
1953年、朝鮮戦争が休戦となり、昌徳宮に戻るつもりでしたが、李承晩大統領の妨害にあっています。
そのため、宮殿には戻れず、ソウルの城北区・貞陵の修仁斉で暮らしました。
昌徳宮に戻ることができたのは、それから7年後の1960年のことでした。
純貞孝皇后の最後
昌徳宮の楽善斎では、日本から帰国した徳恵翁主や李垠・方子夫婦と一緒に暮らしたといいます。
1966年2月3日、純貞孝皇后は昌徳宮で心臓麻痺により亡くなっています。
葬儀は国葬として行われ、裕陵に夫の純宗と共に埋葬されました。
まとめ
純貞孝皇后は父親の策略で皇太子妃に選ばれました。
皇后になってからの純貞孝皇后は朝鮮王朝終焉の激動の時代を歩くことになりました。
数々の試練に屈することなく立ち向かった純貞孝皇后は73歳で亡くなっています。
純貞孝皇后は大韓帝国の最後の皇后であると同時に、実質は朝鮮王朝最後の王妃でもありました。