徳恵翁主は実在した皇女です。
大韓帝国最後の皇女でした。
徳恵翁主について、家系図から詳しくご紹介していきます。
徳恵翁主の家系図
徳恵翁主は大韓帝国の初代皇帝・高宗と厨房の下級女官・梁春基(ヤン・チュンギ)との間に生まれました。
高宗が61歳のときにできた初めての女の子でした。
<徳恵翁主の家系図>
義兄の純宗(後の第2代皇帝)は39歳と大きく年が離れていました。
また、徳恵翁主が生まれたとき、16歳の李垠と36歳の李堈は日本で暮らしていました。
夫の宗武志は対馬藩15代藩主・宗義和の六男として生まれました。
名門宗家の家督を継ぎ、第37代当主となっています。
徳恵翁主の子孫
徳恵翁主と夫・宗武志の間には一人娘の正恵がいました。
正恵は日本人男性と結婚しましたが、子供ができませんでした。
従って、徳恵翁主の家系は断絶、徳恵翁主の子孫はいません。
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徳恵翁主はどんな王女だったのか?
徳恵翁主は無口で大人しく、運動は苦手のようでした。
14歳で一人で日本に留学させられ、18歳で母親を亡くすと、性格は益々内向的になったといいます。
しかし、幼い頃から文学的な才能は高く、徳恵翁主が書いた詞に高名な作曲家が曲をつけて発売されるほどでした。
徳恵翁主のプロフィール
生年:1912年5月25日
没年:1989年4月21日
享年:78歳
父親:高宗
母親:福寧堂 貴人梁氏
夫:宗武志
子女:宗正恵
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徳恵翁主の家族
徳恵翁主と宗武志の間には一人娘・正恵が生まれています。
関係 | 名前 | 読み | 生年-没年 | 備考 |
夫 | 宗武志 | そうたけゆき | 1908-1985 | 英語学者、議員 |
本人 | 徳恵翁主 | トッケオンジュ | 1912-1989 | 高宗の長女 |
長女 | 正恵 | まさえ | 1932-1956 | 自殺 |
徳恵翁主の娘・正恵
結婚した翌年の1932年に徳恵翁主は娘の正恵を生んでいます。
宗武志と結婚する前から、徳恵翁主には病的な傾向が見られ「総合失調症」と診断されていました。
娘の正恵は学習院を卒業後、早稲田大学で知り合った鈴木昇と結婚します。
鈴木昇は宗家に婿養子・宗昇となりました。
正恵の夫は東京大田区蒲田の御園中学校で英語の教師をしていたことから、新婚生活は東京大田区雪谷で始まりました。
しかし、正恵はうつ病を患い結婚した翌年の1956年に遺書を残して失踪してしまいました。
捜索しましたが見つからず、二人は離縁となりましたが、失踪から約50年後、正恵の遺品が山中で発見されています。
夫の宗武志
宗武志は父・黒田和志と母・鏻子(れいこ)の四男として生まれました。
1931年3月に東京帝国大学文学部英文科を卒業しています。
同年5月に徳恵翁主と結婚しました。
このとき、朝鮮には徳恵翁主に適した結婚相手が見当たらず、宗家は伯爵家ではあったが莫大な借金をかかえて破綻の危機にありました。
格式の高い家に嫁がせたい徳恵翁主側と財政的な後ろ盾を得たい宗武志側で利害が一致した結婚でした。
宗武志は徳恵翁主が病を患っていることは承知で結婚しています。
実際、結婚後に李王家から宗家に多額の援助金が支援されたと思われます。
しかし、宗武志は1955年6月に徳恵翁主の実家の要請により離婚、日本人の勝村良江と再婚して2男1女の子供をもうけています。
徳恵翁主の生涯
日韓併合により、徳恵翁主の人生は時代に翻弄された人生へと変わっていきました。
寵愛された幼少時代
1912年5月25日、高宗と側室である梁春基(ヤン・チュンギ)の間に徳恵翁主が生まれました。
梁春基は厨房で働く下級女官だったといいます。
しかし、高宗60歳で初めて生まれた娘は徳恵と名付けられ、高宗に溺愛されたといいます。
その寵愛ぶりは、徳寿宮の中に専用の幼稚園を設けるほどでした。
1916年、この幼稚園に通った徳恵翁主は1921年に京城の日之出小学校2年に編入しました。
日本語の教育を受け、作詞に優れた才能が見られたといいます。
日本での留学生活
1926年、高宗の希望もあり、徳恵翁主は王族としての待遇を受けられるようになりました。
1925年3月、13歳で一人日本に渡り、4月には東京の女子学習院に編入しています。
東京では異母兄の李垠と方子の夫妻が心細い徳恵翁主の面倒をみました。
韓国への一時帰国
徳恵翁主は映画では韓国への帰国は全く許されていませんでしたが、実際には何度か韓国へ帰国しています。
1926年4月に異母兄の李王純宗の見舞いと葬儀で朝鮮に帰国しました。
また、1929年5月に生母である梁貴人が亡くなったときも韓国に帰国しています。
徳恵翁主の病気
徳恵翁主は母親が亡くなってから、鬱的な症状や奇行が出始めたといいます。
病院で検査した結果、「統合失調症」と診断されました。
しかし、1931年5月8日に旧対馬藩主・宗家の当主である宗武志と結婚しました。
徳恵翁主の病気を知っての結婚だったといいます。
夫婦仲はよく、1932年8月14日に長女正恵が生まれています。
1946年、徳恵翁主の病状が悪化、急遽、松沢病院に入院しました。
徳恵翁主の帰国運動が始まる
1950年1月、韓国人新聞記者金乙漢が李垠家を訪れた後に、松沢病院を訪問しています。
そこで、徳恵翁主の悲惨な現状を知り、韓国国内で徳恵翁主のことが紹介、彼女の帰国運動を始めました。
1955年6月に宗武志は徳恵翁主と離婚が成立、徳恵翁主は母方の姓を名乗って梁徳恵となりました。
徳恵翁主の帰国
1960年、李承晩大統領が失脚して朴正煕が実権を握ると、李王家の人たちの韓国帰還運動が動きだしました。
1962年1月26日、遂に徳恵翁主は韓国へ帰国を果たします。
このときに、韓国国籍も取得し、ソウル大学医学部付属病院に入院しています。
徳恵翁主の晩年
徳恵翁主は晩年、義姉方子と昌徳宮内の楽善斎で病に伏しながら暮らしました。
そして、1989年4月21日、徳恵翁主が静かに亡くなりました。
享年78歳でした。
徳恵翁主は現在、父・高宗が眠る「洪陵」の近く埋葬されています。
近くには、異母兄・純宗が眠る「裕陵」、李垠と方子夫妻が眠る「英園」、甥の李玖が眠る「懐仁園」があります。
映画「ラストプリンセス~大韓帝国最後の皇女」
「ラストプリンセス」は徳恵翁主をモデルにした映画です。
かなり脚色されたエピソードが散りばめられていますが、大筋は徳恵翁主の人生をベースに描かれています。
クォン・ビヨンの小説「朝鮮王朝最後の皇女 徳恵翁主」が原作で、この小説は韓国で100万部のベストセラーとなりました。
製作年:2016年
監督:ホ・ジノ
脚本家:ホ・ジノ、チェ・グノ、ソ・ユミン、イ・ハノル、キム・ヒョンジュン
原作:クォン・ビヨンの小説「朝鮮王朝最後の皇女 徳恵翁主」
主演:ソン・イェジン(徳恵翁主役)
まとめ
大韓帝国最後の皇女と言われる徳恵翁主ですが、実際には500年以上続いた朝鮮王朝最後の王女と言えます。
本来であれば、周囲の寵愛を受け、幸せな人生を送れたはずでした。
13歳という幼い年齢で異国の地で暮らした精神的な苦痛は耐え難いものがあったと思います。
精神を患った後半生は時代に翻弄された悲劇的な人生でした。