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光海君の次の王は仁祖【仁祖がクーデターを起こした理由】

光海君の次の王は第16代国王・仁祖です。

仁祖の即位前の名前は綾陽君(ヌンヤングン)ですが、綾陽君と光海君はどんな関係だったのか?

なぜ、綾陽君は光海君に対してクーデターを起こしたのか?

史実を詳しく調査・検証しました。

 

 光海君の次の王は仁祖

光海君の次の王は、クーデターを起こして光海君を倒した綾陽君(ヌンヤングン)です。

綾陽君は即位して第16代国王・仁祖となりました。

 

光海君と仁祖の関係

綾陽君(ヌンヤングン)は第14代国王・宣祖と側室の子供・定遠君(チョンウォングン)の長男として生まれた。

綾陽君は光海君の腹違いの兄弟の長男、つまり光海君の甥にあたります。

<光海君と仁祖の関係>

 

仁祖は何故、クーデターを越したのか?

仁祖(綾陽君)がクーデターを起こした根本的な理由は、光海君に対する恨みでした。

謀反の罪を着せられて、綾陽君の弟や父親が亡くなったのです。

 

光海君は即位すると、反対派が支持していた実の兄の臨海君や幼い永昌大君を殺害してしまいました。

自分の王位を脅かす存在と思ったからです。

 

また、永昌大君の母親で光海君の義理の母である仁穆大妃を廃妃して幽閉してしまいます。

この出来事を「廃母殺弟」と呼んで、後に光海君を廃位する大義名分とされました。

 

更に、このときに綾陽君(ヌンヤングン)の弟の綾昌君(ヌンチャングン)も謀反の罪で殺害されてしまいました。

これを聞いた父親の定遠君もショックのあまり亡くなります。

この恨みが、後に綾陽君がクーデター(仁祖反正)を起こした個人的な理由となります。

 

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仁祖はどんな王様?

本来、仁祖は王位につける立場ではなかったが、反光海君の西人派によるクーデターにより担がれて王位に付きました。

 

仁祖のプロフィール

<仁祖のプロフィール>
在位: 1623年4月12日-1649年6月17日
姓・諱:李倧(イ・ジョン)
廟号:仁祖
生年:1595年12月7日
没年:1649年6月17日
父:定遠君(1580年-1620年)
母:仁献王后(1578年-1626年)
弟:綾原大君 李俌(1598年-1656年)
弟:綾昌大君 李佺(1599年-1615年)
正室:仁烈王后(西平府院君韓浚謙の娘)
   荘烈王后(漢原府院君趙昌遠の娘)
側室:貴人趙氏
   貴人張氏
   淑儀羅氏
   尚宮 李貞敏
陵墓:長陵

仁祖の家族についてはこちら>>綾陽君(ぬんやんぐん)の家系図 を御覧ください。

 

若い頃の仁祖(即位前)

仁祖は宣祖の初孫で、おしゃべりは苦手でしたが読むことは得意で宣祖に大変可愛がられたと言われています。

1607年の12歳のときに綾陽君(ヌンヤングン)の称号が与えられました。

 

祖父の宣祖が亡くなると、父親の定遠君と宮殿の外で暮らしています。

定遠君と暮らした家は、後に王気(王が出るという予兆)が漂っているといわれ、土地を没収して、現在の離宮・慶熙宮(キョンヒグン)が建てられたと言われています。

<慶熙宮の外観>

1610年に後に王妃(仁烈王后)となる韓浚謙(ハン・ジュンギョム)の娘と結婚しました。

そして、1612年に長男の李(昭顕世子)が誕生しています。

 

王になってからの仁祖

仁祖は情けない王として歴史に刻まれています。

それは、対中国政策を誤り、勢いのある新興勢力の後金(後の清)を軽視したために攻め込まれ降伏することになりました。

仁祖は降伏の条件として、清の皇帝にひざまずいて謝罪した上に、莫大な賠償金を取られ、さらに息子三人を人質として差し出しています。

 

このときから、朝鮮は清の属国としての扱いを受けることになりました。

王の跡継ぎである世子さえ、清の認証が必要になったのです。

 

8年後に清から息子が解放さましたが、すっかり清の魅力に魅せられた長男の昭顕世子を仁祖は快く思いませんでした。

昭顕世子は帰国後、まもなく急死してしまいました。

あまりの急な死に、清を毛嫌う仁祖の毒殺説もあるほどでした。

 

仁祖はさらに昭顕世子の長男を世子とせずに、昭顕世子の弟の鳳林大君を世子にしました。

そして、昭顕世子の一族を流刑や死罪として破滅させてしまいました。

 

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史実で検証!光海君は本当に暴君だったのか?

光海君が暴君と言われる理由は、反対派が支持した兄弟の粛清です。

しかし、朝鮮の歴史上、兄弟は王になるために邪魔な存在として、また、王位を脅かす存在として殺害されてきました。

 

また、当然、王位継承のレースに負けた反対派の家臣や親族は粛清されてきました。

兄弟の粛清でよく知らえた王は太宗(李芳遠)と世祖(首陽大君)です。

 

第3代国王・太宗になる李芳遠

李芳遠(イ・バンウォン)は、第一次王子の乱で二人の幼い異母弟である世子の李芳碩と李芳蕃を殺害しています。

このときは、避難を避けて李芳遠は王位には就きませんでした。

しかし、自分が王になるために幼い弟たちを殺害したことは間違いありません。

 

第7代国王・世祖なる首陽大君

首陽大君は、王となった端宗を支持する弟の安平大君(アンピョンデグン)を流刑とし賜死させました。

安平大君は兄の第5代国王・文宗の下でメキメキと頭角を現して朝廷に関与し、首陽大君にとっては邪魔な存在でした。

 

また、王になった幼い甥の端宗を退位させて自らが王位に就き、後に端宗を廃位させて流刑とし賜死させてしまいます。

端宗がまだ16歳のときです。

 

更に、首陽大君は端宗の復位を計画していた弟の錦城大君(クムソンデグン)をも処刑してしまいました。

首陽大君は実の弟、二人を殺害したのです。

 

太宗や世祖は王になるため、兄弟を殺害し多くの家臣を粛清しました。

しかし、太宗や世祖は光海君や燕山君ほど暴君とは言われていません。

反対に、世祖は「事柄を始めた王」または、「大きな功績を残した王」につけられる○祖の廟号(びょうごう)までもらっています。

 

光海君が暴君とされた理由

光海君を失脚させるクーデターを起こしたのは永昌大君を支持する西人派でした。

王位獲得に失敗した勢力が廃母殺弟という名分で光海君を廃位させたのです。

悪いやつ(暴君)だから、廃位させて正しい道に戻す(王を替える)

つまり、クーデターを正当化するためには光海君を暴君する必要があったのです。

 

一方、もう一人の暴君・燕山君は暴君化した理由が、母親の復讐であり、実際に自ら残虐な行為を行いました。

誰が見ても、暴君であることは間違いありません。

 

近年、光海君在位中に行った政策が評価されています。

また、暴君の根拠である廃母殺弟も光海君の決定ではなく、家臣が行った行為との見方も出てきています。

 

廃位された王の悲劇

廃位された王は、当然、歴代の王のような処遇を受けることはありません。

歴史上、廃位された王は燕山君と光海君の二人だけです。

 

廟号がない

王は亡くなると、廟号(びょうごう)が与えられます。

〇祖や〇宗といった称号ですね。

でも、燕山君と光海君はどちらも〇〇君のままで、これは、側室の王子に与えられた称号です。

王子時代の称号で呼ばれ、王様として認められていないと言うことです。

 

実録ではなく光海君日記

歴代の王は亡くなると、在位中の実績を朝鮮王朝実録に記録されます。

朝鮮王朝実録は王ごとに編集されて、粛宗実録などのように〇〇実録と呼ばれます。

しかし、廃位された光海君の記録は光海君日記と記録されています。

実録ではなく、単なる日記の扱いなんです。

 

お墓は陸ではなく墓

通常、王と王妃の墓は陸(ヌン)、世子と世子嬪の墓は園(ウォン)と呼ばれ、それ以外の王族は墓(ミョ)と呼ばれています。

廃位された王は、当然、墓(ミョ)として埋葬されています。

 

光海君の最後

クーデターにより失脚した光海君は、幽閉した義理の母である仁穆大妃の前に連れて行かれました。

そして、光海君はその場で罪名を読まされて、家族とともに江華島へ追放されました。

十数年後に光海君は済州島に移され、1641年に66歳で亡くなっています。

 

光海君のお墓

光海君のお墓は南楊州市の真乾面 松陸里 山 59番地にあります。

王妃の文城君夫人柳氏と一緒に眠っています。

王ではなく、大君の礼にしたがって祭祀が行われました。

従って、廃位された光海君のお墓は光海君墓と呼ばれ、王の陸に比べ後ろに石壁のない寂しいものです。

 

まとめ

光海君の次の王は仁祖でした。

仁祖がクーデターを起こした根本的な原因は光海君に対する恨みでした。

しかし、光海君は燕山君と比較しても、暴君と呼べるだけの残虐行為が見当たりません。

兄弟を殺した王は他にも存在しました。

 

光海君が燕山君のような残虐な行為や国の財産を私物化するような行為が無かったにも関わらず、暴君と称されるのは、クーデターの大義名分が必要だったからではないでしょうか。

暴君と称される光海君、燕山君ともクーデターにより失脚した王です。

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