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廃妃慎氏の家系図【暴君・燕山君に尽した王妃の生涯とは】

残虐な燕山君もこよなく愛し、慕った廃妃慎氏とはどんな王妃だったのか。

廃妃慎氏の家系図から調べてみました。

 

廃妃慎氏の家系図

廃妃慎氏は居昌慎氏一族の出身です。

居昌慎氏の始祖・慎修は、中国 宋の開封府の人で、文宗の時代に国交を開くために高麗に来ました。

慎修は学識が高く医学に精通していたため、文宗の勧めで帰化して開京に定住しています。

そのため、慎修は文宗に大変重用されたといいます。

<廃妃慎氏の家系図>

 

廃妃慎氏の母・中牟県主は世宗の四男である臨瀛大君(李璆)の娘です。

つまり、廃妃慎氏は第4代王・世宗のひ孫になります。

また、中宗の妃である七日の王妃で有名な端敬王后は廃妃慎氏の姪(兄の娘)にあたります。

<端敬王后との関係>

 

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廃妃慎氏はどんな王妃だったのか?

廃妃慎氏は上下の区別なく誰にでも優しく謙虚で、人徳のある王妃だったといいます。

暴走する夫に対しても、内助を尽くし、夫の暴行には心を痛めていました。

そのため、廃妃慎氏はクーデターにより王妃は廃位されますが、特に処罰はありませんでした。

 

廃妃慎氏のプロフィール

廃妃慎氏(ペビシンシ)
在位:1494年12月29日-1506年9月2日
廃位後の称号:居昌郡夫人
生年:1476年11月29日
没年:1537年4月8日
享年:62歳
夫:燕山君
氏族:居昌慎氏
父親:慎承善(シン・スンソン)
母親:中牟県主

 

燕山君も王妃の前ではおとなしかった

歯向かうものは誰でも容赦のなかった燕山君ですが、廃妃慎氏の前ではおとなしかったといいます。

残虐な行為を繰り返す燕山君を廃妃慎氏が諫めても、燕山君は黙って聞いていまいた。

また、燕山君がお気に入りの張緑水(チャン・ノクス)にさえ、廃妃慎氏に手を出すことを禁じていたといいます。

 

それほど、燕山君は廃妃慎氏を寵愛していたのです。

流刑になった燕山君の最後の望みが「王妃に会いたい」であっとことは有名な話です。

 

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廃妃慎氏の家族

慎承善、慎守勤の親子は成宗、燕山君の時代に朝廷の実力者として君臨していました。

しかし、中宗反正に反対した慎守勤が処刑されると、慎一族は没落の一途をたどりました。

 

廃妃慎氏の親兄弟

廃妃慎氏の兄は七日の王妃で有名な端敬王后の父親です。

母親は第4代王・世宗の四男・臨瀛大君の娘で、端敬王后の祖母にあたります。

関係 名前 生年-没年 備考
慎承善 1436-1502 領議政
中牟県主 1435~不詳 臨瀛大君の娘
慎守勤 1450-1506 端敬王后の父
慎守謙 不詳
慎守英 不詳

 

廃妃慎氏の家族

廃妃慎氏には、下記2男1女を含めて7~9人の子供がいたと言われていますが、いずれも幼い時に亡くなっています。

関係 名前 生年-没年 備考
燕山君 1476-1506 第10代王
長女 徽慎公主(李寿億) 1491-不詳 中宗反正後、廃位
長男 廃世子(李◯) 1497-1506 中宗反正後、賜死
次男 昌寧大君(李誠) 1500-1506 中宗反正後、賜死

燕山君は子供を大変可愛がりましたが、長女・徽慎公主に対する寵愛は格別だったといいます。

結婚した徽慎公主には驚くほど大きな屋敷を与えています。

 

しかし、中宗反正により徽慎公主は強制的に離婚、自宅は没収され平民に降格となります。

また、二人の息子はまだ10歳と7歳でしたが、成長してからの報復を恐れた臣下により賜死させられています。

 

廃妃慎氏の生涯

1476年、 廃妃慎氏は慎承善の娘として生まれました。

 

平和な世子嬪時代

1488年、即位前の燕山君と婚姻し、世子嬪に封じられています。

廃妃慎氏は13歳でした。

燕山君の父・成宗が廃妃慎氏を大変気に入ったと言われています。

 

1491年、廃妃慎氏は16歳で長女の徽慎公主を生んでいます。

1494年に成宗が亡くなると、夫が第10代王として即位、廃妃慎氏は王妃に冊封されました。

このとき、廃妃慎氏は19歳でした。

この年、最初の子供が生まれていますが、1ヶ月で亡くなっています。

 

1497年、長男の李◯が生まれました。

李◯は世子に冊封されています。

 

1499年、兄である慎守勤の娘(後の端敬王后)が普城大君(後の中宗)と結婚しました。

1500年、次男の昌寧大君(李誠)が生まれました。

 

残虐な粛清の始まり

1502年、父の慎承善が亡くなり、1504年、朝鮮史上、最も残虐な甲子士禍が勃発します。

燕山君が亡き母・尹氏の毒殺にかかわった人物を皆殺しにしたのです。

廃妃慎氏は夫の残虐行為に対して大変心を痛めていました。

 

中宗反正

燕山君の独裁は長くは続きませんでした。

1506年、中宗反正が発生、夫が廃位され、廃妃慎氏も王妃を廃されました。

 

燕山君は江華島に流刑、二人の息子は賜死させられました。

廃妃慎氏は夫に付いていくことを希望しましたが、臣下から止められ、漢陽にとどまることになります。

このことからも、廃妃慎氏が敵味方に関係なく慕われていたことがわかります。

 

燕山君は流刑後、2ヶ月で病死しています。

当初は流刑地に埋葬されましたが、1513年、廃妃慎氏が中宗に懇願して現在の燕山君墓に移されました。

 

廃妃慎氏は実家で静かに余生を過ごし、1537年、62歳で亡くなっています。

死後は夫の隣で安らかに眠っています。

 

まとめ

廃妃慎氏は残虐な暴君・燕山君の王妃でした。

しかし、燕山君も温和で心優しい廃妃慎氏を寵愛して、決して手を出さなかったといいます。

家臣からも一目置かれていた廃妃慎氏は、燕山君が流刑、息子が賜死になっても、連座になることはありませんでした。

廃妃慎氏は余生を静かに暮らし、62歳の生涯を全うしています。

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