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洪麟漢(ホンイナン)の家系図【正祖の大叔父でありながら政敵】

洪麟漢(ホンイナン)は正祖の母親の叔父、つまり正祖の大叔父でした。

それほどの親族なのに、思悼世子を陥れ、正祖の政敵になった洪麟漢について詳しく調べました。

 

洪麟漢(ホンイナン)の家系

洪麟漢(ホンイナン)の家系を辿ると、第14代国王・宣祖の娘・貞明公主に辿り着きます。

 洪麟漢(ホンイナン)の家系図

貞明公主の夫の洪柱元(ホン・ジュウォン)は朝鮮の名家である豊山洪氏一族の出身です。

つまり、洪麟漢は朝鮮では名門中の名門である豊山洪氏一族の出身なんです。

<洪麟漢の家系図>

洪麟漢(ホンイナン)は正祖の母親である恵慶宮の父親・洪鳳漢(ホンボンハン)の弟です。

つまり、正祖の大叔父にあたります。

関係 名前 読み方 備考
高祖父 洪柱元 ホン・ジュウォン 貞明公主の夫
曽祖父 洪萬容 ホンマンヨン 洪柱元の次男
祖父 洪重箕 ホン・ジュンギ
洪鉉輔 ホン・ヒョンボ
本人 洪麟漢 ホン・イナン

 

洪麟漢の家族

洪麟漢(ホンイナン)の家族については、妻と3人の息子以外に詳しいことは分かりませんでした。

妻は李世漢の娘で、3人の息子の名前は

・洪樂遠
・洪樂述
・洪樂進

でした。

 

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 史実の洪麟漢(ホンイナン)

史実の洪麟漢(ホンイナン)についてご紹介します。

<洪麟漢のプロフィール>
生年:1722年
没年:1776年
享年:55歳
祖父:洪重箕(ホン・ジュンギ)
父: 洪鉉輔(ホン・ヒョンボ)
母:李世漢の娘
兄:洪鳳漢

 

 洪麟漢の経歴

洪麟漢(ホンイナン)は士官になると順調に出世していき、副総理に相当する右議政、左議政にまで上り詰めます。

1753年:科拳の文科に合格
1757年:全羅道観察使に昇進、その後承旨、大司憲に務める
1762年:吏曹參判になる
1763年:戸曹参判になる
1764年:都承旨になる
1768年:刑曹参判になる
1768年:吏曹判書になる
1772年:礼曹判書になる
1774年:右議政になる
1775年:左議政になる

 

正祖を殺害したかった理由

もし、正祖が即位して王になったら、思悼世子の恨みを晴らすために老論派を粛清すると考えたからです。

老論派の重鎮であり、思悼世子を失脚させた中心人物であった洪麟漢は死罪を免れることはできませんでした。

 

しかし、なぜ、洪麟漢は甥の思悼世子を失脚するように図ったのでしょうか。

それは、思悼世子が老論派の敵対勢力である少論派に傾いたからです。

 

もし、思悼世子が王になったら老論派は全て粛清され朝廷から追放されます。

そのため、思悼世子が廃位するように企てて、別の王子を世子にしようと考えました。

大叔父とはいえ、洪麟漢とって正祖は邪魔な存在だったのです。

 

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正祖を徹底的に排除

正祖が王になっては困る洪麟漢は徹底的に正祖を排除しようとしました。

そのため、英祖に対して正祖が「王に不適切である」との発言を繰り返しました。

 

有名なものに三不必知説(サムプルピルジソル)があります。

これは、1775年11月20日に英祖が正祖に代理聴政させようとしたときに、左議政であった洪璘漢が強く反対しました。

東宮不必知老論、少論、不必知吏判、兵判、至於朝廷事、尤不必知矣
「東宮(正祖)は老論のことも少論の事も知る必要はありません。また、吏曹判書と兵曹判書のことも知る必要はありません。朝廷に関しては、もっと知る必要はありません。」(引用元:1775年11月20日英祖実録より)

 

これは、正祖が政治に参加することを強く反対した洪麟漢の言葉です。

映画「王の涙 -イ・サンの決断-」のオープニングにも出てくるので、ご存知の方も多いと思います。

 

洪麟漢の最後

正祖が即位したときに、洪麟漢も思悼世子を陥れた者として粛清の対象になりました。

しかし、正祖は洪麟漢が母の叔父であることを考えて、露骨に死罪にすることはせず、まずは流罪にしました。

そして、時を見て毒薬による死罪(賜死)としています。

1776年に、洪麟漢は流刑地でなくなりました。

享年55歳でした。

 

洪麟漢(ホンイナン)が登場するドラマ

洪麟漢(ホンイナン)は、兄の洪鳳漢と一緒に登場します。

登場するドラマはそれほど多くはありません。

王道(1991年、 イム・ヒョク)
大王の道(1998年、チョ・ヒョンギ)
ホン・グギョン(2001年、 パク・ヨンテ)
イ・サン(2007年、ナ・ソンギュン)

注意:( )内は洪麟漢を演じた俳優

 

 まとめ

洪麟漢(ホンイナン)は思悼世子の叔父、正祖の大叔父でありながら二人の殺害を図ってきました。

そこには党派のためには、親族をも犠牲にする利己的な世界観が根本にあるように思います。

洪麟漢が生きた時代は、勝利したものが残り、敗者は粛清される二者択一の時代だったのです。

 

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