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恭嬪金氏の家系図【短命だった宣祖に寵愛された光海君の母】

光海君の母として知られる恭嬪金氏。

彼女は宣祖に最も寵愛された側室でしたが、25歳という若さで早世します。

この記事では、恭嬪金氏の家系図から人物像、家族、そして生涯まで詳しく解説します。

恭嬪金氏の家系図

恭嬪金氏は、金永貞を派祖とする金海金氏一族の出身です。

恭嬪金氏の家系図

当サイト「雲の上はいつも晴れ」が独自に作成した家系図

<恭嬪金氏の家系図>

この家系は、新羅の名将・金庾信(キムユシン)、朝鮮時代の女性商人・金萬徳(キム マンドク)、近年では,韓国の第15代大統領の金大中(キムデジュン)を輩出した名門氏族です。

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恭嬪金氏はどんな側室だったのか?

恭嬪金氏は19歳で入宮。気の強い側室で、宣祖の寵愛を独占しました。

幼少期は不明ですが、父は司導寺の僉正として働き、壬辰倭乱で義兵長として戦死しています。

<恭嬪金氏のプロフィール>
生年:1553年
没年:1577年(享年25歳)
氏族:金海金氏
父親:金希哲(司導寺僉正、贈戸曹參判)
母親:安東権氏(權璋の娘)
墓所:成墓(ソンミョ)
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恭嬪金氏の兄弟姉妹

恭嬪金氏は2男6女の三女でした。ホジュン ~伝説の心医~には、恭嬪金氏の兄が登場しますが、史実によると実在したのは弟です。

関係 名前 備考
孝玉 李民秉の妻
德海 朴潤の妻
德榮 成準の妻
天香 李壿の妻
天貞 朴楗の妻
金禮直 統使
金義直

家族構成|宣祖と2人の王子

恭嬪金氏は二人の息子を生みましたが、光海君を生んだわずか2年後に、病のため25歳の若さで亡くなっています。

関係 名前 生年-没年 備考
宣祖 1552-1608 第14代国王
本人 恭嬪金氏 1553-1577 第一側室
長男 臨海君(李珒) 1572-1609
次男 光海君(李琿) 1575-1641 第15代国王

恭嬪金氏の生涯

宣祖の寵愛を独占していた恭嬪金氏でしたが、病になると宣祖の足も遠のき、宣祖の寵愛の対象は二番目の側室である仁嬪金氏に移っていきました。

<恭嬪金氏の経歴>

年月日 年齢 出来事
1553年 1 金希哲と安東権氏の娘として生まれる
1571年 19 入宮。宣祖の寵愛を受け 淑儀となる
1572年 20 臨海君を出産、貴人に昇格
1575年 23 光海君を出産、嬪に昇格
1577年 25 病のため逝去

恭嬪金氏の死後の扱い

恭嬪金氏は早世のため、王妃になることも光海君の即位を見届けることもできませんでした。

光海君は即位後に母を王妃格(慈淑端仁恭聖王后)に追尊、お墓も王妃の墓である陵号(成陵)を与えられました。しかし、廃位後に全ての号を廃され本来の地位へと戻されています。

ドラマと史実の違い|ホジュンとの関係は?

ドラマ「ホジュン」では、ホジュンは恭嬪金氏の侍医として彼女を診察していますが、史実では、ホジュンが彼女を診たという史料は存在しません。ドラマの物語上の創作であることは明らかです。

史実によると、ホジュンが王族を診察して功績を上げたのは、1590年に恭嬪金氏の息子・光海君(李琿)の天然痘を治療したときです。この功績によって内医院の通政大夫(正三品)に昇進したことが実録に記録されています。

<登場するドラマ>
ホジュン〜宮廷医官への道〜
(1999年、パク・チュミ)
ホジュン〜伝説の心医〜
(2013年、チャン・ジウン)

まとめ

恭嬪金氏は、宣祖に最も寵愛された側室として二人の王子を産むも、わずか25歳で世を去りました。

光海君の即位により追尊され、一時は王妃格として遇されましたが、廃位により歴史上はその名誉も剥奪されています。

しかし、恭嬪金氏の波乱に満ちたドラマティックな生涯は、ドラマなどで光海君とともに脚色されながら後世に伝えられています。

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