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百済の聖王の家系図【息子を助け、殺害された悲劇の王】

聖王はドラマ「スベクヒャン」のミョンノンのモデルです。

史実の聖王はどんな王だったのか?

聖王いついて詳しくご紹介します。

聖王の家系図

諸説ありますが、三国史記によると百済の初代王・温祚王の父は日本でもよく知られた朱豪です。

聖王は第26代王で帝王の娘スベクヒャンに登場しているミョンノンのモデルになった人物です。

<聖王の家系図>

薯童謠(ソドンヨ)では、敵に捕らえられて殺害される場面が取り上げられていました。

 

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聖王はどんな王だったのか?

聖王は「日本書紀」に多く記述された、日本と関係の深い王でした。

日本に金銅の仏像、経典などを持ち込み、仏教を伝えたのは聖王の時代のことと言われています。

日本書紀で聖王を聖明王と記述されています。

 

聖王のプロフィール

<プロフィール>
聖王(聖明王)
百済26代王
在位期間:523年-554年
諱:明禯(ミョンノン)
生年:不詳
没年:554年
父:武寧王
母:不詳
王妃:不詳
子女:威徳王

 

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聖王の生涯

明禯(ミョンノン)、後の聖王は武寧王の息子として生まれました。

生まれた年月は不明です。

523年に武寧王が亡くなり、第26代王・聖王として即位しました。

聖王が即位した時代は、北方に強敵の高句麗、東方に新興の新羅が迫る多難の時代でした。

 

高句麗、新羅との戦い

聖王は時には、同盟を結びながら、時には倭(日本)に援軍要請しながら、高句麗、新羅との戦いを繰り返しました。

史料から集めた聖王の戦い及び出来事を列記します。

出来事
529 高句麗に五谷之原の戦いで戦死者2千人の惨敗をする(史記)
538 聖王は首都を熊津から泗沘に遷都し、国号を「南扶余」と改める(史記)
540 将軍燕會に高句麗の牛山城の攻撃を命じるが失敗する(史記)
541 任那復興を名目として新羅討伐のための軍事援助を倭国に要請する(書記)
548 高句麗と濊の連合が百済に侵攻、新羅に救援を要請して高句麗軍を大破する(史記)
550 1月、将軍・達己が高句麗の道薩城を陥落させる(史記)
3月、高句麗が逆に、百済の金峴城を奪う(史記)
551 3月、漢山城(京畿道広州市)の地を奪回する(書記)
553 10月、王女を新羅・真興王に嫁がせる(史記)
10月、百済の王子余昌(威徳王)が百合野に砦を築き、高句麗軍に大勝利する(書記)

(史記)は三国史記、(書記)は日本書紀における記述です。

 

聖王が管山城の戦闘で殺害される

554年、聖王は新羅と管山城(忠清北道沃川郡)で戦っている最中に、王子の昌(後の威徳王)が孤立したことを知ります。

聖王は孤立した王子の昌を助けようと敵軍に向かいますが、狗川(忠清北道沃川郡)で伏兵に襲われ戦死してしまいます。

王子の昌(後の威徳王)は生涯、このことを悔やみ罪悪感に悩まされたといいます。

 

まとめ

帝王の娘スベクヒャンで日本でもよく知られた聖王ですが、その生涯は戦いの一生でした。

最後は、息子を助けに行き、敵の兵士に殺害されてしまいます。

短い生涯でしたが、聖王は日本との交流も多く、日本に仏教を伝えたことでも有名です。

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